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【通史】平安時代〈15〉摂関期の事件(2)平忠常の乱と源氏の東国進出

◯摂関期に起きた事件の一つは、1019年に起きた「刀伊の入寇」でした。これは藤原隆家の活躍によって撃退することができました。

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◯次の事件は1028年、藤原道長が亡くなった翌年に関東地方で起きた「平忠常の乱」です。当時の関東地方一帯は「平氏」一門が大きく幅を利かせる地域でした。過去にも関東地方では朝廷の政治に不満を持つ平将門が起こした「平将門の乱」(940年頃)がありましたが、今回もやはり朝廷の政治に不満を持つ「平氏」一門の人間が朝廷への反乱を起こすことになります。

「平将門の乱」を振り返る

◯まず、「平将門の乱」の流れを簡単におさらいしておきます。平将門には良文・良正・良兼・国香と4人の伯父(叔父)がいましたが、そのうちの良文を除く良正良兼によって、将門の父・良将の遺領が横領されたのでした。これに憤慨した将門と伯父(叔父)たちとの間で遺領相続争いが起き、将門が伯父の一人である国香を殺害します。これが引き金となって親族間の武力抗争に発展しますが、将門が伯父(叔父)たちに勝利しました。このことで一躍関東中にその名を轟かせることになった将門が増長し、もともと抱いていた朝廷への不満を晴らすため、ついに朝廷に刃を向けるまでになったというものでした。

◯そして、「将門の乱」の平定に活躍したうちの一人が、父・国香を殺されたことで臥薪嘗胆の日々を過ごしてきた嫡男・平貞盛でした。そして、将門討伐の戦功による論功行賞によって貞盛は昇進し、都での出世街道を歩んでいきます。

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良文一門と国香一門との間の長年の確執

◯さて、ここでもう一度「平将門の乱」を振り返ると、4人いた伯父(叔父)のうちの一人、良文は将門の父・良将(良持とも)の遺領横領に加担していません。むしろ良文将門を擁護しました。そんなわけで、同じ「高望王流桓武平氏」の中でも、良文一門とその他の一門は仲が良くないのです。特に、将門を討伐した貞盛がいる国香一門とは犬猿の仲でした。以上の背景を押さえておくと、このあとの話が掴みやすくなると思います。

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平忠常が安房守を殺害したことがきっかけに

◯さて、それでは本題の「平忠常の乱」ですが、平忠常がなぜ反乱を起こしたのか、そのきっかけとなる原因は何だったのかということは、今もはっきりとはわかっていません。1028年6月、突如として朝廷に「忠常安房国(安房=現在の千葉県)の国府(国司が政務を政務を執る所)を襲い、安房守を焼き殺した」との報せが届いたのです。

忠常良文の一門で、良文の頃から代々、下総国(現在の茨城県)・上総国(現在の千葉県)・安房国(現在の千葉県)などに広大な所領を持っていました。しかし、忠常国司への納税を拒否するなど度々トラブルを起こしていたようです。おそらく今回の件も、国司の安房守との間で、課役(調・庸・雑徭の総称)の収納をめぐって諍いが起こり、それが高じて殺害に及んだのだと推測されています。

◯当時、忠常下総権介という役職にあったようです。「介」というのは国司としてのランクを示す役職名です。律令制のもとでは四等官制といって、役人は4段階の階級に分けられました。国司の場合は「守、介、掾、目」です。つまり、忠常自身も下総国の国司であったということです。なお、忠常の場合は国司としての階級を表す「介」の前に「権」の字が添えられていますが、これは正規の員数を越えて任命する場合に付けられます。下総権介の前には上総介に任じられていた経歴もあるようですので、おそらく下総国上総国に広大な所領を持つ忠常には何らかの役職を付与しておかなければ道理が立たなかったのでしょう。関東地方における平氏の勢力は朝廷としても軽視できなかったはずです。

◯平忠常の反乱がどの位置から始まったのかは不明ですが、下総権介という立場にあることから、おそらく下総国を拠点としていたと思われます。下総国にから上総国を経由して安房国に入り、安房守を殺害したと考えられます。

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平直方が追討使に任命される

安房守を討った忠常は朝廷の役人を殺害した謀反者です。朝廷はただちに会議を開いて忠常追討の官符(太政官から下される命令書)を出し、検非違使(京都の犯罪などを取り締まる警察業務を担当する職)として京都にいた平直方を追討使(追捕使)として派遣することを決めました。

◯平直方は平貞盛の曾孫に当たります。つまり、直方は平国香一門の人間なのです。先に書いたように、忠常良文一門とは犬猿の仲であり、この対立関係が利用されたのです。直方としても、忠常を潰せる絶好の機会を朝廷の後ろ盾によって手に入れたわけです。

平直方、40日後に京都を出発する

◯こうして8月平直方忠常を討つために兵を引き連れて京都を出発しました。しかし、忠常が反乱を起こしたのは6月です。忠常追討の官符を出してからおよそ40日も経過しての出陣です。あまりに動きが遅すぎます。実は、これは平直方が出発するのに最も良い日(吉日)を占わせ、どうやらその結果が8月5日だったことによるようです。もちろんその間も、忠常は関東で暴れ回っています。今から考えると信じられない話ですが、これが平安時代です。

◯平将門の乱の時もそうでしたが、平忠常の反乱はその地に住んでいる農民たちを奮い立たせ、多くの支持を集めます。農民たちは国司の苛政に苦しみながら生活をしています。心の中では常に不満を抱えながらも、立ち向かうだけの勇気もない。それが国司に対抗できるカリスマが登場すると、これまでため込んできた不満が一気に爆発し、続々と追随する者が現れる。こうして多くの人々を巻き込んだ大反乱へと発展していくのです。その意味でも、平直方が出発に要した40日間というのは致命的な愚行であったわけです。

平直方解任、源頼信が新たに追討使に任命される

◯こうして大規模な反乱へと発展した平忠常の乱を鎮圧するのは並大抵のことではありません。平直方はいっこうに反乱を鎮圧することができず、長期化の様相を呈します。1028年8月の出発から2年が経過した1030年9月、ついに直方は解任され、京都に召し返されます。そして、替わって甲斐守(甲斐=現在の山梨県)源頼信が新たに追討使に任じられました。源頼信は「平将門の乱」と同時期に起きた「藤原純友の乱」を鎮圧して出世を遂げた源経基の子孫です(ちなみに源頼朝源経基の子孫です)。

◯しかし、追討使に任じられた源頼信でしたが、すぐに動こうとはしませんでした。季節は秋です。すでに長期に渡る戦乱によって田地の荒廃と人々の疲弊が極限を極め、忠常側にこれ以上の戦闘を持ち堪える体力は残っていないだろう、放っておいても冬の寒さと飢えでさらに体力は削られる。春が来るのを待ってから動けばよい、そんな考えがあったのかもしれません。1031年4月になってからようやく出発の準備をし始めました。平忠常が反乱を起こしてから約3年が経過していました。

忠常の突然の降伏

◯ところが、突然、源頼信のもとに、平直方には徹底抗戦の構えだった平忠常が自分の子供たちを引き連れて現れ、自ら降伏してしまいます。しかも、頭をまるめて出家していました。忠常にどのような心境が変化があったのかはわかりませんが、房総半島全体を巻き込み3年にも及んだ大反乱は、これにてあっけない幕切れを迎えることになりました。

忠常が降伏した理由

頼信は出頭してきた忠常を連行して京都へと向かいますが、その道中で忠常は美濃国(現在の岐阜県)にて病死してしまいます。このことから、もしかすると忠常は自分の命が長くないことを悟り、子供たちの命を守ってもらうことと引き換えに降伏したのではないかという説があります。

◯また、頼信はかつて常陸介在任中に忠常を部下としていた過去があり、頼信が追討使に任命されたことを知った忠常は、尊敬する頼信とは戦いたくない、降参したのではないかという説もあります。いずれにせよ、あくまで推測であり、実際の理由はわかりません。

「平忠常の乱」の歴史的意義

「平将門の乱」には「武士が初めて朝廷に反旗を翻した事件」という歴史的意義があります。「将門記」という軍記物語も書かれています。一方、「平忠常の乱」はその知名度のわりに、あまり歴史的意義を感じません。強いて言うなれば、源氏の東国進出の基盤をつくったことになります。

「平忠常の乱」を平定した源頼信(河内源氏の祖)には、頼義という嫡男がいましたが、平忠常の乱で追討使に任じられるも戦果をあげられずに解任された平直方は、この頼義相模守(相模=現在の神奈川県)になったときに自分の娘を娶らせ、婿に取りました。平直方「相模平氏」といって相模国を拠点とした平氏の系統であったため、この婚姻関係によって平直方に従っていた武士たちも源頼義の配下に入り、相模における伝統的権威も受け継ぎます。そして男孫の義家が生まれた時に、直方は鎌倉に所有していた土地や屋敷を頼義に譲り与えます。こうして、源氏(河内源氏東国進出を果たしていくことになるのです。

◯やがて源頼朝が鎌倉に幕府を開くことになりますが、これも遡っていくと「平忠常の乱」のおかげと言っても過言ではないです。

◯なお、のちに起こる前九年の役後三年の役で、頼義義家に相模の武士が側近として従ったのは、こうした結びつきがあったからです。

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