伝統的なキリスト教にも宗教虐待はあるということ…

私が子どもの頃から結婚前まで通ったキリスト教の宗派は、一応日本のキリスト教の中では大手です。宗派としても老舗です。

それでも、母親が私が小学生のときから教会に連れて行かなければ、また母親がキリスト教を利用して私を支配するようなことをしなければ経験せずに済んだこともありました。

私は母のキリスト教入信以前から、母の激しい暴力に晒されて育ちました。
母はキリスト教に入信することで選民意識を持ち「自分は正しい側の人間だ」と確信することで、母は私を殴るときに迷わなくなりました。

さらに母は神父に自らが子どもを殴っていることを告白し、神父からそれは罪ではないと言う言質をとったことで自らの暴力を正当化しました。

私は毎日のように、今日は殴られませんようにと祈っていしました。しかし神は助けてくれるどころか、殴る側の母ばかりを力づけているように映りました。

キリスト教を知るまえよりも人生に絶望して生きていくことになりました。

また私は、いきなり教会の教えを学ぶことになりました。好奇心旺盛な子どもだったので、知らないことを学んでいくのは楽しかったものの、正直脅しの色合いが強かったのは事実です。

罪や裁きは恐ろしかったし、最後の審判で、イエスが人間を左右に分ける場面は恐ろしくて悪夢に見たほどでした。

この時にみっちり仕込まれた罪のイメージは強烈でした。
成人後にキリスト教の教えに従ったり、教会コミュニティの付き合いに疲れをおぼえるようになった後も、なかなか離れることはできませんでした。

自分がどう生きていくのか、何を信じて(あるいは信じず)、どんな人たちと付き合って(あるいは付き合わずに)生きていくのか、それを選ぶだけで根深い罪悪感と地獄の恐怖に苦しむことになりました。

そしてこの話とは別に、成人後も私の周り(母周辺の教会の人間関係)では奇妙な価値観が伝染し、私はその巻き添いを食うことになりました。
その価値観は、教えそのものではありませんでしたし、教団の指示があったわけでもありません。

教会の親世代が選民意識を手放せないまま子育てし、その後の子どもたちの人生を受け入れられなかった結果起こったことだと思っています。

一言でいうと、信仰を持とうが、神学を学ぼうが、人は偏見から逃れることができないということです。

その後、このnoteでも数記事にわたって書いてきた、私自身の結婚をめぐっても色々あり、教会を離れ、それでも数年は地獄の恐怖に苦しみ…。
今はキリスト教や裁き、地獄といった事柄を相対化することができて、クリスチャンでない人生を選んで生きています。

クリスチャンであることを選んでも、そうでない人生を選んだとしても、自分で悩んで選べたということそのものが尊いのだと思います。

私はキリスト教を糾弾したいわけではありません。
自分の人生を生きるのに集中していて、そんな暇はありません。


ただ私の生い立ちから学んで欲しいのです。
伝統キリスト教の世界にも、子どもを虐待する親はいるし、宗教虐待は起こりうることを。

まさか自分の宗派には宗教2世問題はないだろうと思っている人が多いとは思いますが、実際は目立たないけど存在することを。

(傷を抱えた人は黙って出ていってしまうので、神父も牧師も信徒たちも学ぶことなく、問題は続いていくことになります)

親から「お前なんて地獄行きだ!」と言いながら殴られつづける恐怖と絶望感…。
神や罪、裁きを利用して虐待されると、単に殴られるよりも抵抗するのが難しくなったり、トラウマが深刻になったりするのです。

キリスト教は愛の宗教だと言う人は多いけど、そこに罪や裁きがある限り、それを利用して人を支配したり虐待したりする人間は出てくるのだと思います。

私の親がたまたまおかしかっただけ。
私が遭遇した聖職者や教師たちが極端だっただけ。
そうかもしれませんね。

ただ…。

虐待する親は、キリスト教の教えや聖職者の権威をどう虐待や支配に利用するのか。

虐待やメンタルの知識などが一切ない聖職者が家庭や個人の問題に立ち入ることで、どんなことが起きてしまうのか。

聖職者が何気なく発した言葉で、主に母親が追い詰められて、そこから虐待に発展することがあるということ。
(母親限定なのが腹立たしいです…。
一方、妻のみ受洗して、日曜日に夫をひとり家に置いて、子どもたち引き連れて教会にきているのは、あるあるな光景です。)

牧師や神父の誰かひとりでも、捨て石である私の人生をひろって、他山の石としてくださるのなら…。

またクリスチャンのひとりでも、子育てする時にただ教えや価値観を伝えるのではなく、
「あなたはこれ、どう思った?」
「教会のことであっても、嫌だとか変だとか、行きたくないとか思ったのなら、それで良いんだよ」
と子どもの湧き出てくる気持ちを大切にしてくださるのなら…。

私の経験にも、意味を持たせることはできると思っています。
このnoteでは、しばらく私の人生とキリスト教との関わりを綴っていきます。ひとりでもお付き合いいただける方がいらっしゃるなら、光栄です。

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