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#3 曲が先か、詞が先か?

 中学時代の恩師に、「お前は馬のような男だ」と言われたことがある。そのこころは、目の前にあるものしか見えず、夢中になったら猪突猛進、その他のことはお構いなしだと。だからもう少し余裕をもって身の回りを見るようにしたほうがいい。

 そんな風に言われた。

 「グラデーション」リリース以降、CHIRAとしては停滞する日々が続いているが、プライベートではすごく充実している。まず完全にプライベートな話からすると大学時代の友達と筋トレしたあとスタジオで音楽やったり、新しい友人と出会って夜な夜な飲み屋に繰り出したりしていた。
 もう少しCHIRAに関係するところでは、山口和也さんのセッションにお呼ばれしてギターの腕を磨いたり、ノイジシャン(ノイズミュージックにおいて専用の発振器で音楽を奏でる人)と知り合って新たな音に見聞を深めたりしていた。

 その一つ一つの時間が濃ゆく、最高に有意義で。ひとレース終えて廏舎に戻ってあたりを見渡すと、B1エッセイという文字が俺の目に飛び込んできたのだった...


 いや、白状すると質問箱でファンの方に催促させてしまったんですね。それくらい放ったらかしだったので。今はフリーでやってるけど、マネージャーが付いていた当時だったらば、良くも悪くもこんなことは起こらなかったでしょう。原稿飛ばしたりしたら大騒ぎだったからなぁ。。。

 やっぱマネージャー雇うのはやめておこうかなぁ。。。


 さて、冗談はほどほどにして、今日は歌詞の話をしたいと思います。

 ザックリ言うと、僕の制作スタイルは「曲先」が多い。つまりメロディやらリフやらを先に作って、後から歌詞を乗っけていくパターンね。
 このスタイルの良いところは、音楽的な制作ができること。言葉に縛られないぶん、音楽的な表現の自由度が高くて気持ちいい。作りこめるし、作りやすい。そんなわけで得意分野だから長年「曲先」でやってきた。

 一方、数としては少ないがたまに採用するのが「詞先」。歌詞を先に書くということね。今回の「グラデーション」なんかはほとんどの曲を詞先で作った。当たり前だが言葉での表現が主になるためボーカル命みたいな感じの曲ばかりできる。音楽性で言えば、僕は曲先のほうが好きかな。敢えて詞先で作るときは、表現したいテーマがハッキリしていたり、言葉でしか表現できないものを抱えていたりするときだね。


 この「曲先」と「詞先」では、当然ながら歌詞の質は異なってくる。「曲先」の歌詞は韻を踏むことがとにかく重要で、ある種ヒップホップに近い要素があったりする。

 たとえば

 一番 君が見上げた夜空には 満天の星空が 悲しく泣いていた
 二番 僕が見上げた青空は 雲一つないくせに どこか淋しげだ

 「満天の星空」と「雲一つない」、「悲しく泣いていた」と「淋しげだ」、同じことを別な言い回しで語っているにすぎないのだけど、前半で「君」は「夜空」を見ていて「僕」は「青空」を見ていることから、同じ時間に違う場所にいて、同じようなものをみて同じ気持ちになっているとわかります。つまり遠距離恋愛で会えなくて寂しい男女の気持ちを歌っている歌詞です。

 ※あくまでも例として作った一節なので、誰かの作品と似ていたとしても他意はありませんのであしからず。


 一方、「詞先」の場合は言葉で表現することが重要なので、韻やリズムはそこまで重要ではない。どちらかというと小説とかエッセイみたいな表現力が求められる。

 となると、詞先の場合は一曲通して重なるフレーズが少なくなる。耳に入ってくる言葉がすべて新しいものだと、音楽として楽しむには若干ハードルが高くなるのだけど、そこも含めて「曲」というひとつの概念だったり作品だっていうことを伝えたくて、作詞家は詞を生むし、作曲家はメロディを紡ぐし、ボーカルは歌うし、ミュージシャンは張り切っちゃう。

 わかりやすさとか共感が歌詞に求められる時代。それはそれで素晴らしいことだと思うし否定するつもりは全くないのだけど、こういう良さもあるぜ、ってたまーに言いたくなる。


 そういうときは机に向かって詩を書いて、その言葉たちにギターとともに寄り添ったりするのです。


CHIRA


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