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#カワイクイキタイ25「この気持ちの名前をまだ知らない」

 エッセイを書こうと思う。

 この『#カワイクイキタイ』は文章と歌詞の間のような、比喩表現と曖昧な言い回しを嗅いで探して、歌にのせればそのまま歌えるような、少なからず多少ポエミーな、そういう文章を書こうとしていつも書いている。

 でも今回は、エッセイを書こうと思う。

 いつか貪るように読んだ、松尾スズキやさくらももこやリリー・フランキーが書いた、エッセイ然とした、エッセイのための、エッセイめいた、そんな文章を。

 何もかもを赤裸々に書いたりはしない。なんの調理もせず出すようなことはしない。本当にだいじな気持ちや思いは誰にも教えないって決めてる。

 これは、世界中の人にとってなんの価値もない話。鼻をほじったり、排泄しながら読んだらいい。私も、よく精神的鼻をほじりながら他人の舞台を観てる。

 雷が落ちた。

 あれは、バンドが解散し、親しい友人が鼻先で自殺した年。世界に絶望した私は、当時住んでいた祖父母の家の一室から一歩も出なくなった。嘘だ!正確には、たまに出ていた!ばあちゃんとじいちゃんが代わる代わるガダルカナル生存確認しに来るから、心配させたくなくて食事だけは一緒に取っていた。

 それでも、一日一回あるかないか。あとはずっと寝ていた。なぜって、起きていてもいいことなんか起きなかったから。現実はかなしいことばかりだ。苦しい。このまま目を覚ましたくない。そう願ったら、脳みそが私をずっと眠らせてくれた。

 しかし24時間寝続けるのは限界があった。目が覚めている数時間、できるだけ何も考えないように過ごした。試行錯誤の末『水曜どうでしょう』を見るのがいいことに気付いた。何度も何度も見た。程よく無心になれて、程よくくだらなくて、ちょうどよかった。

 『水曜どうでしょう』からTEAM NACSに出会った。「演劇」という芸術があることをこの時はじめて知った。まともにわかるのは音楽と小説や漫画だけで、映画もドラマも全くだったから、演劇なんか知る由もなかった。

 眠くなるまでの時間つぶし。それこそ精神的鼻をほじりながら、もしかしたら実際にほじりながら、ネットで舞台映像を探し、観た。TEAM NACSの『looser』という作品だ。

 自分と同じ歳くらいの男が、ふんどし一丁のほぼ全裸で、目を飛び出そうなほどに剥いて、聞いたことがないほど大きな声で叫んでいる。恥ずかしくないのか?なんやこれは。なのにドキドキして、夢中になっていた。途中で気付いた。その表現はバンドのライブに似ていた。ああなりたいと何度も思った、あのバンドのライブ。

 これ、なんだ。もっと観たい。もっと観たい、やってみたい。

 あの時落ちた雷が、今の私を作ってる。

 現実より夢の中に希望を持っていた人間をあっさりと変えてしまった。救おうと思ってじゃなく、結果的に、でも実際に、人間をひとり救った。

 そういう生活になって数ヶ月が経っていた。人生を無駄にしたとは思わない。むしろ、あの時も一生懸命生きようとしていたんだと思う。つくづく、振り返ってはじめてわかる。あの日の私は、生きるために死んでいたのだ。

 深夜の高速をハイエースで走っている。

 運転席には当時の恋人、倒した後部座席に家財道具一式を積み、猫を二匹連れて、故郷の大阪から東京を目指していた。二度と帰らないつもりで。

 時は流れて、2019年のこと。

 あの原体験から数年経ち、右も左も分からないまま演劇の世界に飛び込んで、この前の年に「もう二度と嫌だ」と思うほど夜行バスに乗ったことをきっかけに上京を決意した。色々なタイミングがここだった。運命は信じてない。なるべくしてそうなったと思ってる。

 今でも、夜の東京を車で走っていると、この日のことを思い出す。深夜の高速道路、窓からの景色。これは目で見た。では、胸の中は?不安と期待、さみしさとよろこび。こういう単語で表すのはもともと好きじゃない。感情なんかいつだってグラデーションで何色でもない。

 今の気持ちを「この気持ち」以外の言葉で伝えられず、なんと呼べばいいか分からず、なにも覚えていられない。だからいいんだと思う。

 半袖に一枚羽織るくらいの、いい季節だった。だった気がする。気がするだけかもしれない。私にはもう、カレンダーの暦でしか、この出来事を振り返ることができない。

 まもなく、コロナ禍がやってきた。

 もともと何も持っていない上京人間に巡ってくるチャンスなどどこにもなかった。このまま、二度とどころか一度も、東京に出てきた甲斐があったと思う日は来ないんじゃないか。永遠に無いんじゃないか。なんのためにここにいるんだろう。そう思いながらバイトをして、それ以外は自宅にいて、静かに生きていた。

 なんてワクワクしないんだろう。息苦しかった。

 また、世界に絶望しはじめていた。

 このままずっとこうなら、どう生きてゆくべきか。また失うんだろうか。だったらはじめなきゃよかったって、また思うんだろうか。表現活動なんか全部やめて、パン屋か司書になって、心を凪にして生きてゆくか。それはそれで悪くない、か。でも「それ」はいつ決めればいいんだろう、いや、ていうか、イヤだな。

 そんなとき、私はあの日の『looser』に出会う。

 悪い芝居という劇団の『今日もしんでるあいしてる』。

 全てのエモは、その時の気分だ。

 たまたま知り合いが出るから観に行っただけ。たまたま名前を聞いたことがある劇団だっただけ。たまたま、世界に絶望していただけ。

 その劇は、人を救おうなんて土台無理なことを思っていなかった。私と同じように世界に絶望しかかっていて、でも前を探してて、一生懸命そっちを向こうとしているようにみえた。

 前を向くことは、生きる意思だ。ただ生きようとしていた。クソみたいな今を抱きしめようとしていた。その姿が私には力強くやさしくて、気がつけばボロボロ泣いていた。憎いはずの空席ですら愛おしいものに変えるその空間に、時間に、人の力に、ただただとことん救われた。

 全部たまたま。観なかったら観なかったで、別のなにかに救われていただろう。でも思う。救われたのがこの劇団で、この作品でよかった。出会いたかったんだと思う。やっぱり、運命は信じない。

 それにこんなのは、全部嘘かもしれない。思い出を美化するのは人間の得意技だし、そんな気がするだけかもしれない。でも私は運命より、自分の見たこと覚えてることを、信じたい。

 劇場を出たら、空が晴れていた。そんな気が本当にしたんだ。

 観たのは夜公演だったかもしれないけど。

 もっと早く知りたかったなんて言っても仕方ないが、どれもこれも劇場で観たかったと思いながら、取り憑かれたように過去作品の映像を観た。その中のひとつに、印象深く、思い出したからこそ鮮明なシーンがある。

 ヒロインに撃たれたボーカルが血を吐きながら「これで永遠に音楽になって残る」といったことを言い残し燃えるシーン。(台本持ってないから定かじゃない)

 燃える直前の最後の言葉が確か「永遠に、とわに、フォーエヴァーに」。(持ってないの、定かじゃないの) 

 観劇した帰り道、なぜか『メロメロたち』のそのシーンが蘇った。

 これを書きはじめた日に私が観てきた芝居のタイトルは、悪い芝居 第一章ふぁイナル公演『スーパーふぃクション ふぉーエヴァー』。劇団が一旦その歴史に終わりを宣言した。あまりに出会うのが遅かった。たった5作品しか劇場で観れなかった。

 私は、運命と同じくらい永遠も信じてない。正確には、永遠に「ある」ものはひとつもなく、永遠に「ない」ものはある。はじまったらおわる。命も、気持ちも、ぜんぶ終わる。いつかなにかしらの形で、絶対に終わる。

 最後なのに、永遠ってタイトルにつけたの。なるほど。永遠に続くんじゃなくて、終わるから永遠なんだ。永遠って、こういうことだったんだ。最後“なのに”じゃなくて、最後“だから”ふぉーエヴァーなんだ。

 もう失うことはない。これは永遠だと思う。

 あの日、夜の高速を一緒に走った恋人は隣にいない。心配そうに様子を見にきたじいちゃんもこの世にいない。でも残ってる。それこそ多分、もういないから永遠に。どうせ忘れるけど、忘れても思い出せるなら永遠だろう。

 かっこいいものが好きだ。

 かっこいいというのは、かっこ悪いでもある。

 いいんだ、別に。正しく、他人に求められるように振る舞うことも時には必要だけど、素直に正直に、自分を嫌わないために生きること。イヤなものはイヤ、好きなものは好きだと言ってゆくくらいのこと。そのくらいは許されたい。

 誰かに共感してもらう必要はない。

 あんなに大好きだったTEAM NACSは、公演があれば観に行くけど、とっくにかっこいいではなくなって怒りすらわいている。ではもう好きじゃないのかというとそうじゃない。「もう好きじゃない」と言うのはあまりに簡単。そんな簡単じゃないんだ。愛も親しみも憎しみも悲しみも寂しさ悔しさも、ある。

 この気持ちをなんと呼ぶ。

 好きなバンド、好きな劇団、好きな人、好きだという気持ちすら、うつろってゆくしずっと同じなわけがない。だからいい。その時その時、感じたことが本当だったらそれでいい。名前をつけて、人に説明できなくていい。

 『スーパーふぃクション ふぉーエヴァー』の中で主人公の相棒が、今日はじめた劇団がどんなに話題で人気があっても、時間は手に入らないということを言っていた。時間とは、ただの時ではない。重ねたなにもかものことだ。

 見透かされた気がした。私がずっとほしいもの。そして絶対に手に入らないもの。19年続けられた時、そばに誰がいて、なにが見えて、どんな言葉が書けるだろうか。あんな風に思えるんだろうか。

 悪い芝居はいつもかっこよかった。ふぁイナルも、かっこよかった。

 19年生きた、人間を観た。

 こうだったらいいのに、をたくさん観させてもらった。こんな人がいてくれたらいいのに、世界が、こんな風だったらいいのに。かっこいいもの、かわいいもので溢れていたらいいのに。間違いなく希望だった。そして永遠に、希望のまま。

 この気持ちの名前をまだ知らない。

 ここまで書いて、部屋から出なくなったあの日の私が見ているからこう書いているのだと思った。もしかしたら、もっと前。バンドをやっていた頃の私かもしれない。本多劇場で『今日もしんでるあいしてる』を観た後の私ではなく、そのずーっと昔の私がこちらを見てる。

 人の気持ちなんか分からない。その場所にいないと。その人にならないと。分からないでいい。いろんなとこで言ってるけど、分からないから分かろうとするんだって本当に思う。分からないことを分かろうとするのはたのしく、とても愛だと私は思う。

 誰かに共感してもらおうと思って書いていない。でも、私はもうあの日の私ではなく、こうやって分からないことを「分からない」と言葉にすることができる。いつかこの気持ちを演劇にすることだってできるかもしれない。だったら、残しておきたい。どうせ忘れてしまうんだから。せっかく書けるんだから。

 誰かのじゃなくて、私の心はこう動いた。

 生きようね。そう思った。

ぷう。

ひとくちメモ

ない。全部書いた。
https://waruishibai.jp/final/

撮影日:2023年4月8日
撮影場所:夜の渋谷

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