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【グレイシーに柔術を教えた男】前田光世の生涯

みなさんは、「コンデ・コマ」の異名で世界を渡り歩き、グレイシー柔術の祖となった日本人、前田光世をご存知でしょうか?

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前田は、世界各地を放浪しながら異種格闘技戦を行い、着衣の試合では2000勝無敗の戦績を残しました。

ブラジルに渡った際には、カーロス・グレイシーに柔道を教え、これが後に格闘技界を席巻するグレイシー柔術へと発展します。

今回は、グレイシー柔術の誕生に多大な影響を与え、ブラジルから最も愛された日本の格闘家・前田光世の生涯を解説します。

【生い立ち】

前田は1878年(明治11年)、現在の青森県弘前市に生まれました。

幼いころから腕っ節が強く、村で開催される宮相撲では大いに実力を発揮しました。

1895年(明治27年)に青森県第一中学校(後の青森県立弘前高等学校)に入学し、運動委員の一員として柔術部創設に関わりました。

しかし、前田は2年で中退して上京し、創立されたばかりの早稲田中学に編入しました。

早稲田中学時代の前田(写真左)

ここで講道館柔道に出会った前田は、講道館へ入門します。

メキメキと力をつけた前田は、1898年(明治31年)、無段者どうしの月次勝負で兄弟子らを次々と投げ、十人抜きを達成しました。

これにより、前田の実力は講道館内で知られていくこととなりました。

講道館四天王の1人である横山作次郎に鍛えられた前田は、昇段審査に合格し初段となりました。

横山作次郎

東京専門学校(現:早稲田大学)に進学した前田は、1901年(明治34年)、三段に昇段し、学習院や陸軍幼年学校などで柔道を教えるようになりました。

この頃、その実力を評価された前田は、講道館四天王に次ぐ存在として、佐村嘉一郎らとともに「講道館三羽烏」と称されました。

【柔道普及のため渡米】

1904年(明治37年)、講道館四天王の1人で嘉納治五郎最初の門弟である富田常次郎が柔道普及のために渡米することとなりました。

富田常次郎

この富田の同伴者として、前田が選ばれました。

渡米にあたり前田は、後に首相となる衆議院議員の犬養毅から日本刀「長船」を贈られました。

犬養毅

アメリカ東海岸に到着した前田と富田は、陸軍士官学校やコロンビア大学で形見せと練習試合を行いました。

渡米時の前田 https://www.ndl.go.jp/brasil/data/R/S005/S005-004r.html

身長164cm、体重68kgの前田を見て、楽に勝てると踏んだ大柄なフットボール選手たちが試合を挑んできましたが、前田は彼らを次々倒しました。

ただ、柔道普及は思うような成果を上げられず、東海岸に残る前田と西海外に拠点を移す富田とに別れました。

最終的に富田は7年間の柔道指導を経て帰国の途につきますが、前田はアメリカのみならず世界を放浪することとなります。

東海岸に留まった前田は、新聞に広告を出し、レスラーなどの挑戦を受けて公開勝負を行います。

初めての公開勝負は、ブッチャーボーイというプロレスラーで、182cm、113kgの巨漢でした。

圧倒的な体格差でしたが、前田は巴投げや関節技を極めて完勝しました。

ブッチャーボーイはこの試合で靭帯を損傷したと言われています。

前田は、その後もアメリカ各地で公開試合を行って柔道の宣伝に務めましたが、結果は芳しくありませんでした。

アメリカに見切りをつけた前田は、イギリスへ渡りました。

【“コンデ・コマ”】

イギリスに到着した前田は、アメリカ同様に公開試合を行って柔道の普及に努めます。

そんななか、前田は初めてボクサーと対戦することとなりました。

この試合で前田は、顔と鳩尾をガードしながら身を屈めてタックルし、そのまま関節を極めて勝利しました。

つまり、この時既に、ヴァーリ・トゥード(何でもありの闘い)におけるグレイシー柔術の戦法の原型ができあがっていたのです。

その後もフランスやベルギーなど欧州を股にかけて異種格闘技戦を繰り返し、連戦連勝していた前田は、スペインへ渡りました。

このスペインで、前田は生涯の異名となる「コンデ・コマ」を名乗るようになります。

この異名の由来については、前田が金欠で困っていたため日本語の「困る」から取った、など諸説あります。

その後、中南米へと渡った前田は、キューバ、メキシコ、グアテマラ、パナマなどを渡り歩き、大柄のレスラーを倒すなどして脚光を浴びました。

特にキューバでは、前田の活躍を知った興行主によって「コンデ・コマに勝ったら1万ドル」という新聞広告が出され、約400人が前田に戦いを挑んだという逸話も残っています。

そして、1914年(大正3年)、前田の永住の地となるブラジルへ到着します。

【グレイシー柔術の誕生】

前田はリオデジャネイロやサンパウロなどを巡った後、1915年(大正4年)にアマゾン河口の都市ベレンに到着しました。

前田が着いたころ、ベレンはちょうど入植三百年祭の最中であり、アマゾン一の勇者を決める大会が行われていました。

これに飛び入りで参加した前田は、大柄な男たちを次々破り、難なく優勝しました。

1917年(大正6年)、柔道の実演を行っていた前田に、ある男が自身の息子への指導を依頼してきました。

その男とは、現地の顔役の一人であった事業家のガスタオン・グレイシーです。

そして、そのガスタオンの息子が、後にグレイシー柔術の創始者となるカーロス・グレイシーでした。

ガスタオンに依頼された前田は、カーロスに柔道を教え込みました。

カーロスとその弟のエリオが前田の技術体系をもとにグレイシー柔術を創設し、ブラジル最強となったエリオが、日本最強の柔道家・木村政彦と異種格闘技戦を行うのはまだ先の話です。

木村政彦 vs エリオ・グレイシー(1951年)

そして、1993年(平成5年)にエリオの息子ホイスが、グレイシー柔術を駆使して総合格闘技大会「UFC」で優勝し、「グレイシー」の名を世界に広めるのもそのまた先の話です。

【2000勝無敗】

キューバやメキシコに遠征しても前田は連戦連勝を重ねました。

当時、日本人がキューバに渡ると、「君は日本人か、だったらコンデ・コマを知っているだろう。彼はジェントルマンだった。とても強い男だった。この島で何回も戦った。一度も負けない柔道家だった」と聞かされたと言います。(『不敗の格闘王 前田光世伝』より)

1918年から1919年にかけて、前田はブラジルで著名なカポエイラの使い手と対戦します。

相手は身長190cm、体重は100kgという巨漢で、ナイフまで使いましたが、前田の柔道に敗れました。

世界各国で現地の猛者を倒してまわった前田の戦績は、2000勝無敗(着衣の試合)と言われています。

しかし、向かう所敵なしの前田ですが、年齢が40を超えていたこともあり、1922年(大正11年)、格闘家としての活動にピリオドを打ちました。

第一線を退いた前田は、アマゾンへの入植事業に力を入れることとなります。

【日本とブラジルの架け橋】

1920年代の日本は、金融恐慌、世界恐慌、昭和恐慌などの恐慌に見舞われ、慢性的な不況に陥っていました。

この対策の一つとして、内務省はブラジルへの移民を奨励するようになります。

ブラジルへの移民はサンパウロに集中していましたが、前田は政府要人にアマゾン入植の有望性を説き、外務省の嘱託となりました。

また、自ら案内役を買って出て、アマゾンの有望性を説いてまわり、入植者達の世話に奔走しました。

しかし、アマゾンの過酷な環境の前に、入植者はなかなか定着しませんでした。

前田は、日本の政府筋から帰国の誘いを受けますが、それを断り、残りの人生を入植事業に捧げます。

そして1941年(昭和16年)11月、腎臓病によりこの世を去りました。

63歳でした。

20世紀初頭に柔道普及のため海外に渡って以降、前田は一度も祖国日本の土を踏むことなく、生涯を閉じました。

最期の言葉は、「日本の水が飲みたい、日本に帰りたい」でした。

死後、前田には講道館より七段が贈呈されました。

前田の柩が運び出された際には、前田を見送ろうとベレン市内の全ての日本人が集まり、行列を作りました。

前田のお墓は、晩年の定住の地であるベレンにあり、ブラジルへ移民した空手家・町田嘉三によって管理されています。

ちなみに町田の息子は、第10代UFCライトヘビー級チャンピオンのリョート・マチダです。

日本とブラジルの修好100周年に当たる1995年には、前田の名を冠した「コンデ・コマ インターナショナル ジュウドウ チャンピオンシップ」という柔道大会がベレンで開かれました。

グレイシー柔術の基礎を作った前田の功績は、日本とブラジルの架け橋となっています。

以上、世界を放浪して異種格闘技戦を行い、後半生をブラジル・アマゾンへの入植に捧げた格闘家、前田光世の生涯を解説しました。

YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇


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