見出し画像

5時

夜よく眠れなかった時期があった。


0時を過ぎて、2時を過ぎて、4時を過ぎる。自分の頭のなかのごちゃごちゃは、自由にうごくけれども体はちっとも眠くならなくて、くらい室内にあるのは使いなれた身体ではなくて制御のできないごちゃごちゃだけ、みたいな感じがした。からだという入れ物を失って部屋じゅうにはみだしてゆくごちゃごちゃ。

「だいたい5時ごろ悟りをひらく」
というのが、眠れない人たちのあいだでの共通認識だった。当時は学生で、生活リズムがおかしくなってしまった人がまわりにたくさんいた。
5時。つぎの朝の来るころ。ずっとくらかった室内に、空に、光があふれだすころ。そのころになるとひと晩じゅう悩んでいたことにありえない方向から解決の光が射して来たり、苦しんでいた論文の糸口を見つけたり、自らが謎の高みに到達したりするのだ、という。5時にはなにかが起きる、と。


眠れないでその時間になるころ、だいたい眠かった。
ゆうべから思い悩んでいたごちゃごちゃを考える気力もなくなっている。頭から漏れだしたごちゃごちゃは部屋じゅうに溶けていって、カーテンをひらくと朝焼けの色のだんだら雲がみえた。

アコースティックギターをもって近くの大きな公園に行って、だれもいない木々のなかで、ちいさく爪弾いた。覚えたてでじょうずに弾けないので、人のいないときに練習する。早朝の木々のなかでぽろぽろ弦を鳴らす。ちいさく鳥が鳴く。眠かった。

目のまえに人がいることに気づかなくて、でもむこうもふらふらと歩いているだけなのでかまわず弾いていた。その人は近くの石に腰かけて、携帯を見ていた。弾き終えると拍手があった。
5時だった。うたえますか、と聞かれた。眠かった。5時だった。なんにも考えずに、弾きながらうたった。拍手していた。5時だった。

その歌もう一回うたってもらえますか。
眠かった。いいですよ、と言って、うたった。
ぜんぜん聞いている感じはしなかった。鳥かなにかの声でも聞いているみたいな。うたい終えると、よかったです、と言われた。

なんか、いろんなこと思い出しました。
その人の声を、私はギターを抱えたまま聞いていた。眠かった。
僕、大事な人がいたんですけど。いま離れてしまって。もっと大切にすればよかったなと思いました。あなたの歌きいてたら、なんか、あの子のことものすごく思い出しました。

自分がなにを聞いているのか、よくわからなかった。ギターを抱えたまま、相槌だけうっていて、ときどきかくん、と眠りそうになる。ぼうっとした頭に彼の声が聞こえる。
どうすればよかったんだか、いまでも考えちゃうんですよね。
そうなんですか。
大事だったんですけど。
そうだったんですね。

5時だった。その人がだれか、知らなかった。なにに会ってしまったのだろう、と思った。会うはずのないものに会ってるのかな。眠くて、なにを聞いているんだかなにを喋っているんだかわからなくなっていた。

どうすればよかったんでしょうね。
大事だったのにね。

聞こえる言葉も、放つ言葉も、どっちがどっちなんだかわからなくなる。私も大切な人を失くしたばかりだったし、どうすればよかったのか、わからなかった。

思い出してしまうんですよね。
どうすればいいんでしょうね。

鳥が鳴いていたし、だんだら雲がひろがっていたし、朝は来ているはずなのに太陽の姿は見えなかった。もうギターの音も鳴らない。答えは見つからない。

なんかあの、ごめんなさい、でもありがとう、歌を聞けてよかった。
そういって彼はどこかに行って、私も帰った。その後いちども会わなかった。


また眠れなかった日、5時頃、おなじ公園に行ったとき、低い空にほんのかすかに光が見えた。ごくごく短い虹で、切れ端みたいなかけらだった。まちがって落としたみたいな。あるいは、こっそりと渡された、贈り物みたいな。

あの人、だれだったのかな、と思った。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?