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手のひらと椿

公園に椿が咲いていた。
白くて、可憐で、ちいさくて、ひかえめな花。写真を撮っていると、ひとつだけ、花がぽとりと落ちた。

白侘助、という名前の椿だった。
落ちたその花を、しずかにそっと手にとる。花びらはやわらかかった。いまにもこわれそうなその花を、手のひらにやさしくつつむ。



実家の庭には八重の椿が咲いていた。
冬になるとたくさんの花をつける。大好きだった。幼いころ、よくその花をひろって遊んでいた。手のひらいっぱいにのせた花は、やわらかかった。

白侘助のちいさな花を手のひらにのせながら、その時間を思い出す。
椿の木の下、花をひろっていたこと。大切にふれて、いくつも重ねて、土のうえで遊んでいたこと。


椿と私、好きという気持ちとふれるということ、そのあいだになにひとつ差しはさむものなどなくて、ただいっしょにすごしていた椿の木の下の時間が、その感じがふいに帰ってきたのだった。
 

手のひらにのせた白侘助のちいさな花が、ただ愛おしくて、そのやわらかさにふれていることが、とてもうれしかった。
そしてそういう素直な気持ちを、ずいぶん長いこと忘れていた気がする。



大人になるにつれて、好きだから距離をたもつとか、大切だからこそ離れて見守るとか、そういうことがふえた。遠ざかることばっかりうまくなった。

愛おしい、の先にあるのは、損ねないようにふれないでいる、それを選んでばかりいた気がする。
それが悪いこととも思わない。私となにかのあいだにある距離は、相手や、周囲、大切なものを顧慮する大事な余白で、そこにはほんとうにたくさんの想いと豊かさがある。
その距離自体の美しさもあるし、その遠ささえ愛している部分もある。

でも顧慮することがふえていくうちに、距離がはなれてゆくうちに、いちばん最初に咲いた「好き」という素朴な気持ちは、遠ざかって、見えなくなって、いつの間にかこぼれ落ちてしまう。
好きだからふれないでいるあいだに、好きだったことさえなかったことになって、知らないうちにこぼれ落ちてゆく。


かえりみられることもなく、こぼれ落ちた花が、たくさんあるのだと思う。
でもたしかに咲いていたということ、やさしくまなざして憶えていたい。見えないところで凍えるようにこぼれ落ちた花のこと。人しれず流された涙のように、しずかに落ちた思いのこと。

そっと手にとって、やわらかさにふれる。あたたかさを思う。こぼれ落ちたとしてもたしかにそこに息づいていたもの、それがあったということ、手のひらいっぱいに受けとめていたい。
 
 

 

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