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ちいさく灯る、あわのような時間と

小さいころお盆になると近くのお寺からお坊さんが来て、お経をあげるとしばらく茶の間でお酒を呑んでいた。
なんのかのと村のことなどしゃべってコップにつがれた清酒をぐいぐい呑んで、真っ赤な顔をして笑う。ちょっと足に来てふらふらしたまま次の檀家へとむかうお坊さんは、ヘルメットもしないで袈裟姿でスクーターに乗っていた。

いまだと許されないようなことも、許容されていたのだと思う。良きにつけ、悪しきにつけ。

辺鄙な田舎で牛や農機具がゆたゆた通る、生い茂った生垣のすきまから木洩れ日がさす、土と泥でよごれた小路を、村のお坊さんがゆらゆらスクーターで通る。畑に出ていた人に、つぎどこいくんだい、と聞かれて、よっちゃんちだよ、と赤ら顔でこたえる。なんだい、よっちゃんち初盆じゃなかったんけ。そら去年だべな。話の終わりが不明なまま響く、ぶろろろろ、というゆるいエンジンの音。かわききった土くれ。ふわふわの、白い雲。

祖母が生前、話してくれた8月15日のことをよく覚えている。
当時祖母は19歳。土間でひとり、お昼ごはんのうどんをこねていて、正午にラジオ放送を聴いた。毎年その日はお盆さまで、お昼にうどんを食べる習わしだったという。

あぁ、おら、これからどうなるんだんべ、どんな目にあうんだんべ、そうく(そういうふうに)思ったらよ、うどん打(ぶ)ちながらぽたぽた、ぽたぽた、涙が出て。

ゆくさきのことを不安に思って涙を流していてもなお、うどんを打ちつづけた、というところがいちばん心に残っている。
どんなにこわくてもたちどまって涙に暮れている暇など農家にはなかったんだと思う。たえず手を動かし、草を取り、牛馬を世話し、食べるものをつくりつづけ、食べさせ、食べ、生きていかないといけない。

あのお坊さんも、祖母も、亡くなった。

お盆が来ると、村のあちこちのお墓に、お花が供えられ、線香がくゆり、提灯をもって魂迎えがおこなわれる。お盆のあいだじゅう、いつもふわふわした気持ちになる。亡くなった人たち、いまはもうない時間たちが、たくさん戻ってくるからだ。土くれだらけの道を歩いて、畦に腰かけて、川辺ではねる水音に耳をかたむけて、なくなったものたちが息をしている。


お盆の終わり、畑でちいさく送り火を焚く。
煙にのって帰っていくんだよ、とずいぶん昔に教えられた。
しろくゆれながら立ちのぼってゆく煙のゆくえ、そうして遠ざけること。そこまでふくめて、お盆なのだということをときどきじっと考えている。
そっと迎え、大切に受けとめて、もういちど息をしてもらい、いっしょにすごし、敬意をもってさよならをして、いまに立ち返る、毎年くりかえされる日々のこと。
大事に思い出して、また、離れるということ。

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