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日々のできごと 初夏

月末恒例の、日記のようなものです。


4月某日

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あめんぼを見てすごす。


5月某日

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水田を見ると、後ろ髪がひかれる。
私の生まれた家は米農家で、5月は田植えの季節だった。毎年田植えの日はみなおっくうな気持ちでむっつりと田で作業していた。祖父の死去とともに田はよそへ委託し、米作りから離れ、もう稲のことを考えずに生活できるようになったのに、5月になると、あ、やらなければ、という気持ちになる。

百姓の血なのかな、と思っていたけれど、単純に生まれ育ってからずっと続いていた習慣から来るものなのだと思う。百姓は田に水を張り、稲を植え、それで終わりではない。たえまない水の管理、刈り入れ、脱穀、翌年の種籾のこと。農業をいとなむ暮らしの、ほんの一部しか知らずに育ってしまったことをむしろ、忘れきれないのだと思う。
いま育つ稲たちが、すこやかでありますように。



5月某日

いろいろ思うところあったりなかったりして、どこかに行きたくなって、霧深い山奥に迷いこむ。

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白く煙ったむこうを見る。つよい風がふいて樹々の葉裏がひるがえる。ごうごううなる音のなか、鳥たちはおだやかに鳴いていた。楽しそうに。一寸先の見えない深い霧も、葉を舞いあげる強風も、いつもどおりのなんでもないことなのよ、ピョロピョロ。ホケキョ。
葉も枝も土も髪も肌もひたひたと潤う。これもひとつの水のなかだ。

家に帰ってもぼうっとしていた。
置いてきてしまったものと、連れてきてしまったものがある。どちらも霧のようなもの。


5月某日

ものを書くことで「海のようなものをつくりたい」と気づいてから、どうしたらそういうものが書けるだろうと考えていたときにこの本に会う。

「海のなかではすべてのものが揺れている」

その言葉がしめすように水のなかをゆっくりと泳ぐような、たゆたうような小説。
街はつねに海と錯視されつづけてなにもかもがふたしかで、あいまいにゆらぎつづける。
現在も、ここがどこかも、人も存在も思いも、気がつけばふっと消えてゆく。そのいっぽうで、ここにないいつかや、どこか、人や存在や思いがふっと浮かんでくる。浮かんでは消えて、消えては浮かんで、あるとないをくり返し、ゆれる水面に光がきらきらまたたく。深い海の底の暗さ、水面のまたたき、ゆらぐ水の温度を感じながら、それでもたしかに残る感覚の記憶。

うつろう。消える。失う。浮かぶ。出会う。ゆれる。遠ざかる。思い出す。また会う。波のように、あるとないをくり返す。

「切ないっていうか、懐かしいっていうか。なんか、帰ってきたで、って感じ。ただいま、おかえりって、言い合ってるみたいやな。」(p.22)

ただいま、おかえり、をくり返す。
ふれあうことは、そういうことじゃないかな、と思う部分がある。受けとめて受けとめられて、遠ざかって、でも終わるわけではなくて、またただいまと、おかえりがどこかにあるかもしれない。くり返しながら生きている。

今日も雨がふっている。本のなかでもふっている。水のなかにいるみたい。五月雨。眺めている。千年たってもおなじように。長い雨をぼうっと眺めている。

大切に想う人たちに、ただいま、おかえり、ってまた言うまでの時間を生きている。
そして、いまそばにいる大切な人たちと、ただいま、おかえり、って言いあうようなさりげなさで、ここにあるいっときをだいじに愛おしみたいな、と思う。


ー 今月のありがとうの気持ち ー

☆記事紹介ありがとうございました
久保田友和さんゆうなってさんamaさんyuca.さん

☆マガジン追加ありがとうございました
久保田友和さんいとかよさん髙橋三保子さん

☆記事のおすすめありがとうございました
ゆうなってさんtenさん久保田友和さん

☆読んでくださるみなさま、ほんとうにありがとうございます。私もみなさまに、すこしでもなにか返してゆけるよう、日々こつこつがんばります。

知人に言われた、「蓄積でしか価値は出せない」という言葉を最近よく思い返しています。いろいろゆれながらではあるのですが、やっぱり読むこと、書くこと、ひとつひとつ大切につづけていこうと思っています。


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