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あなたも私もない世界

波打ち際でずっと夢を見ているような、歌を詠む人がいる。

こすれあうものみな白し谷の抱く海にしずかに足さしいれる


東直子さんの歌。
『青卵』に収録されている。

海を詠んだ歌も多く、しずかにひろがる波打ち際で、海に足を浸しながらまどろんでいる感じがする。

先日書いた記事で、“波打ち際にいるような人” という表現をしたけれど、東さんはほんとうに、波打ち際からことばをこぼしているように思う。

穂村弘さんが「東さんは夢の中の感覚を書ける」と言っている。実際、夢の中みたいな歌も多い。

ママンあれはぼくの鳥だねママンママンぼくの落とした砂じゃないよね

抽象的で突拍子もなく思えるかもしれないけれど、でもおとぎ話のなかに入りこんでいるようなこの感覚は、なんとなくわかる、という人も多いんじゃないだろうか。
というより、だれもがほんとうは知っている。あの感じ。夢のなかや、生まれおちるころ、あるいはそのまえの、なにもかもが渾然一体となった場所、あなたも私もその区別もない、理屈も道理もなく、とけあいまざりあう根源的な場所、そこにある感覚。
ふだん忘れている、あの感じを東さんは書く。はんぶん海に浸かったまま。

だからすごく、懐かしいし、焦がれるような気持ちになるのかもしれない。

言葉なんて知らなくていい闇のなか海を漂う春を漂う
椅子の背のもように風がしみてゆく海をうつせばつめたきまぶた
ふゆのゆめ なにがしたいか言えなくて羽音の中にあなたがとける


あとがきで東さんは
「思いつめると眠ってしまう癖がある」と書いている。
それを読んだとき、おんなじ感覚の人がいるんだ、と思ってずいぶん驚いた。私自身、思い悩むと眠ってしまう。
ここにつづく言葉も自分のことみたいで忘れられなかった。長いけれど引用します。

 思いつめると眠ってしまう癖がある。眠ると、淡い夢をみる。うたた寝の夢の中で会った人と、一度だけ言葉を交わした人は、似ている。どちらもきちんと思い出せない。けれどもたしかに身体の奥にひそんでいる。夢は現実にまざりこみ、現実が夢を抱いたまま動き出す。
 ずっとあとにおこることを夢にみることがある。あいまいで、でたらめで、ときに、とてもはっきりと、正確に。そうだった、わたしはここに来た、と思う。


この感覚を生きるということが実際的にどうなのかということは措くとして、この場所からものを書く人がいるということに深く感じいるものがある。そしてそのことばや歌は、さりげないのにどこまでも沁みてゆく。

夜の海の客船を観にゆきましょうってゆってましたよ、はるかなはるに
好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ


ものごとは儚いしなにかはこぼれて失われてゆく。いろいろと思うことがあって生きることは苦しい、苦しいけれども直截的にこえてゆくというよりは、苦しさを表現に落としこんで、夢みたいに、比喩のようなやわらかさでことばでもって、やさしくひらいてゆく。
東さんのそういう姿勢に惹かれるし、とても憧れる。

そして東さんに関して好きなところは、詠むだけでなく、“読む” 姿勢においても。

さまざまな短歌を東さんが紹介する本で、本来三十一文字であるはずのことばの、余白に含むひろがりまでもやさしく読んでいる。
書かれていない行間にたゆたうものをすくいあげてそっとひろげてみせるさまは、相手に寄り添うというより、もう沁みこんでいるようなありかたをしている。

読むということの深さと、ことばにされなかったものをも掬いあげるやさしさに、大きな影響を受けつづけている。
書くことについても、読むことについても、いつか私もこういうふうになれたらいいなと思う、憧れの人です。


✴︎

ちなみに『青卵』というタイトルのもととなったと思われる歌が、こちら。

ただ一度かさね合わせた身体から青い卵がこぼれそうです

こういう、かなりどきどきする歌をさらっと詠んでしまうところも素敵。
その一方で

水枕鳥の産卵風車小屋花野武蔵野無人改札

こういう言葉遊びみたいなこともしてるところが、あどけなさもあって、とっても魅力的です。



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