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子供が読書でつける2つの力(1510文字)

なぜ、読書は「秋」にするのか?

この前までの残暑が嘘のように、あっという間に肌寒さが感じられる季節になりました。秋と言えば、「読書の秋」。なぜ、昔から読書は秋と言われているのでしょうか。そんなことをふと思いました。
読書は、室内で動かず、落ち着いてするものだということは今も昔も変わりません。今のように冷暖房設備がない時代、夏は暑すぎて、じっと本など読んではいられなかったと思います。冬も同じです。動いていないと、体から指先まで震えてくるでしょう。では、春はどうか。春みたいな陽気な季節は、家にこもっているにはもったいないと、散歩にでも出かけたくなるのが人の心情。秋は、台風が良く来る。家にいるしかない。じっとしていても、心地よい気温。読み物するなら秋に限る。だから、「読書の秋」なんて昔から呼ばれているのではないでしょうか。

私なりの本を読むことの大切さ

私は幼少の頃は、進んで本を読むタイプではありませんでした。「読書の秋」なんて言葉は露知らず、季節、天候を問わず、いつもサッカーボールを転がして外で遊びまわっていました。今は、通勤中をはじめ、時間があれば、読書をすることが多いです。語彙力、引用力、文脈力、想像力、知識力など本を読むことによって、得られる力は数多くあると言われていますが、別に本を読むことが「エライ」と言いたいわけではなく、「本を読むことも、外で遊ぶことと同じぐらい大切だよね」ということを、大別して2つの理由とともに私なりにお伝えさせてください。

① 筆者と対話できること
ある日、こんなニュースを見ました。「英文学者で、お茶の水女子大学名誉教授の外山滋比古さんが7月30日、胆管がんのため東京都内の病院で亡くなりました。享年96歳でした」
私は外山滋比古さんの大ファンでした。一度読んだ本は、すぐに手放してしまうタイプの私ですが、外山さんの書いた本だけは、1冊も手放すことなく家の本棚に置いてあります。市立図書館で、タイトルに惹かれ、何気なく手に取った本が最初の外山滋比古さんとの出会いでした。後に、この方が「知の巨匠」と呼ばれ、250万部の大ヒットを生み出し、40年たった今でも幅広い年齢層に読まれている『思考の整理学』の著者であることを知りました。今では内容を問わず「著者 外山滋比古」と書いてあるだけで、手に取ってしまうほど、偶然出会った1冊の本から強い感銘を受けました。
外山滋比古さんは亡くなられてしまったので、面と向かって、お話が出来る機会は、得られません。しかし、外山さんが書いた本を通して、私は生き方や考え方に触れることは出来ました。何十年後に、誰かに「この本読んでみるといいよ」と勧めることもできます。時間・場所・立場・国境など様々な垣根を越えて、まるで目の前に、書いた人がいるかのように、その人の考えや想像力に触れることができるのが本の良さの一つだと思います。私にとって、本はまるで「どこでもドア」であり、「タイムマシン」でもあります。

②自分と対話できること
読書は誰かと一緒にする読むものではありません。活字が頭の中に、自然と入ってくるような、自分一人の時間や空間が必要とされます。いろいろな友達と関わることが、学校の意義だと私は思いますが、子供にとっても忙しない現代、同じぐらい一人で自分自身と向き合い考える時間が大切でないでしょうか。集中力が高まった誰にも邪魔されない時間や空間で、頭の中で自由に物語の情景を想像したり、筆者の考えに共感・批判をしたりして自由に考え張り巡らすことができるのは、幸福な時間ですよね。
これからも、外遊びも、読書も同じぐらい大切していってもらいたいと思います。


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