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古文を読むのに文法や単語より大事なこと

古文は、古典文法や単語がわからなければ読めないわけではない。むしろもっと大事な要素がたくさんある。
例えば、次の一文はどうだろうか。

木の花は 濃きも薄きも、紅梅。桜は、花びら大きに、葉の色濃きが、枝細くて咲きたる。藤の花は、しなひ長く、色濃く咲きたる、いとめでたし。
(枕草子第三四段)

まず、一見して植物の話題であることはわかる。それだけでも、そもそも古文が我々の現状とかけ離れたものではないことがわかる。
細かくみていく。


木の花は 濃きも薄きも、紅梅。

「木がつける花は、濃いのも薄いのも紅梅である」という意味であることが読み取れる。
このまま受け取ると、「木がつける花であるものは、濃いものでも薄いものでも全て紅梅である」とも解釈できてしまうが、それは何かおかしい気がする。
この文章では、全てが最後の「いとめでたし」に集約していく。だから、ここで言いたいのは、紅梅が「いとめでたし」であるということなのだ。
だから、「木の花の中で、濃かろうが薄かろうが紅梅の花は(いとめでたし)」とでも解釈できる。


桜は、花びら大きに、葉の色濃きが、枝細くて咲きたる。

こちらも、直訳するのはそれほど難しくないだろう。「桜は、花びらが大きくて、葉の色が濃いのが、枝が細くなって咲いている」とでも訳せばよいか。
ただこれも、そのままではちょっと意味が通りづらいので少し解釈を加えると、「桜は、花びらが大きくて、葉っぱの色が濃くって、枝が細くなっているところに花が咲いているものが(いとめでたし)」とでも取ろうか。


藤の花は、しなひ長く、色濃く咲きたる、

こちらは「しなひ」という単語が取りづらいような気もする。だが、他の部分だけ考えてみると、「藤の花は〇〇〇が長くて、色が濃く咲いているのが(いとめでたし)」のようになる。
ここで、藤の花を思い浮かべると、

ああそうか、上からしなだれている花だな、とわかる。すると、あの垂れている部分を説明したのが「しなひ」なのかな、ということが類推できる。
実際ここでの「しなひ」とは、「しなだれている」といったような意味で取ればよく、藤の花の垂れ下がっている部分が長いことを示しているのだろう。


いとめでたし。

そしてこれらの「梅」「桜」「藤」の様子が「いとめでたし」であるというのだ。もちろん、これは流れからして、褒めている、美しいものだと言っていると類推できる。
また、「めでたし」という単語は、現代でも「めでたい」という言葉は残っているから、褒めている言葉なのだということは補強される。
実際、「いとめでたし」は「とてもすばらしい」とでも、「すごく立派だ」とでも、そんな感じで解釈しておけばよい。


こうして見てくると、「この単語は助動詞で~」とか「ここは連体形だから~」というのは基本的に必要ないことがわかる。
もちろん、この文章を無理やり「ここは助動詞の連体形だから~」と説明することもできるが、解釈する上では必要ない。

また、単語というのも、「しなひ」や「めでたし」といった単語の意味を勉強するというのも役立ちそうな気もする。
だが、単純に単語の意味を単独で覚えるのではなく、実際の場面と合わせて解釈していくことが大事なのである。
例えば、ここでの「しなひ」は実際の「藤の花」を知っていることの方がはるかに大事である。そこから、その感覚をつかんでいった方がいい。さもないと、他の場面で出てきた場合にも、杓子定規に訳しては意味が通じないこともある。


むしろここで大事なのは、直訳しただけではつかめない部分である。
例えば、「桜は、花びらが大きくて、葉の色が濃いのが、枝が細くなって咲いている」「桜は、花びらが大きくて、葉っぱの色が濃くって、枝が細くなっているところに花が咲いているものが(いとめでたし)」と解釈することが大事なのである。

これは、文法的な根拠づけや単語の個々の意味というよりも、文全体、文章全体を見渡して、どのように解釈すれば適切かを、実際の植物のイメージや、もっと言えば出典である「枕草子」の特徴から、判断することが大事なのである。


もちろん、文法や単語の意味が必要でないわけではない。だが、それは限られた場合である。優先順位としては決して高くない。

まずは、古文の実際に触れて、解釈に慣れていくことの方が、ずっと大事なのである。



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