山崎孝明 「精神分析の歩き方」総評


心理カウンセラーは、その専門的学習・研修の過程で、まずはある特定の「心理療法」流派のオリエンテーションに基づき研鑽を積む場合が多いと思う。

著者である山崎氏にとっての精神分析技法がそうであったように、大学・大学院に入学する時点で、特定のオリエンテーションへの自発的モチベーションがあった場合もあるであろう。

しかし、多くの場合、入学時には、漠然と「心理カウンセラー」になりたいとしか思っていないケースが、今日大半だとは思う。基礎教育で様々な心理療法流派について入門的な知識等を得たり、セミナーに幾つが出てみる過程でとりあえず選択してみるという人が一番多いであろう。

もっとも、単純に、入学した大学の教育者が拠って立つ心理療法オリエンテーションに取りあえず従うしかなかったというケースもあるだろう(様々な教育スタッフを備えた指定校大学院制度の充実の中で、こうした「受け身の」選択のケースは減っていると思うが)。

いずれにしても、こうした特定の「心理療法」をある程度学んで、カウンセリングの現場に投げ出されたカウンセラーは、大抵の場合、大きな壁に直面する。

特定の「心理療法」を密室でしていればいいという現場であることが、そもそも少ない。更に、クライエントさんを、特定の「心理療法」を受けるようにカウンセラー側から誘導すると、実際にはカウンセリング過程がうまく進まないことが実に多いのである。

カウンセラー自身がこのことに無自覚なまま、特定の心理療法に「巻き込み」、押し付けていて、多くのクライエントさんをはじき出していたり、クライエントさんのモチベーションと異なる方向へとカウンセリングの進行と成果を期待されることによる齟齬が生じていることは、ままあると思う。

著者は、現場カウンセラーとしての経験を重ねる中で、こうした「痛い思い」を繰り返し、そこから「実践知」を自覚的に抽出したきた人だと思う。

第9章「モチベーション論」は、心理専門家が、どのような領域で、どのような雇用形態で働いているかに全く無関係に、面接の、クライエントさんとの合意形成に至るまでの「実践知」として、極めて優れており、自己点検のために、この章だけ独立させてでも必読かと思う。

これは確かに、どの「心理療法」をしていくか「以前の」問題なのである。「心理療法」すら求めていないクライエントさんが多いことは事実であり、何を面接過程で目標とするかの「当面の」合意は、丁寧なやり取りのなかでまずは形成されなばならない。

もっとも、クライエントさんの側に、カウンセリングに現れた自分の「無意識的」モチベーションが自覚されていないことも多く、それに無理のない形で気づいてもらえることも重要であることは少なくないが、これすら、クライエントさんの内面への「侵襲」となる危険を犯すものであることを、カウンセラー側は自覚しているべきであるという、著者の主張はもっともである。

しかし、著者は、こうしたことを、面接過程での単なる「実戦的テクニック」として示しているだけではない。

クライエントさんがどの流派の心理療法の適用がマッチングするかといった「選択」の問題にとどまるものですらない。

著者は、主として精神分析的オリエンテーションの見地からではあるが、そもそも「心理療法」という枠組みそのものが持つ、潜在的権力構造と、期待される、社会での人格のありかた、生き方のおしつけになりかねない問題にまで視野を広げ、問題提起する。

そのことの重要性については、私も全く賛成であるが、その具体的な内容に関しては違和感がある。

果たして、認知行動療法をはじめとするエビデンス重視のアプローチは、即、「新自由主義」に適合する人間を生み出そうとするものであろうか?

私には、ここに「仮想敵」を投影的に作っている側面も感じなくはない。

これは、人格の「成熟」というものを、社会に単に「適応」的な人間になることととらえるかどうかという根源的な問題につながるものとしてとらえられるべきである。

少なくとも私の考えでは、個人心理療法が暗黙のうちに想定している、成熟した人格像というのは、左派リベラリストというのに近い。

理想とされるクライエントは、個人主義者であるが、すべてを自分の「人格の問題」としては考えない。家族や社会に対する自分の不満を自覚し、周囲に迎合せず、むしろ変化すら迫り、場合によっては社会運動に関与するだけのアサーションスキルをも磨かせる性質のものである(少なくともそれをめざさない心理療法を私はよくないものであるとすらみなす)。

認知行動療法ですら、すべてを自分自身の問題として処理するスキルを磨くにとどまらず、周囲に働きかけたり、自分と連帯できる新たな人間関係や社会的資源の活用スキルを向上させる側面を持っていなければ「おかしい」とすら思う。

カウンセラーは、そうした新自由主義ではないリベラリストとしてクライエントが育っていくさまを支援し、見守る役割を果たすのであり、必要とあればそれに「連帯」し、時としてはそれを主導する存在ですらあるべきと私は考える。

もとよりこれはあくまでも「私の」立場であるに過ぎないという自覚はある(ただし、このように自覚し、普遍的価値観と「みない」こと自体が、新自由主義的ではない、リベラリストの価値観だと思うが)。

これが、著者に対する私の違和感であるが、著者の問題提起の視角に価値があるとみなすことには変わりがない。


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