見出し画像

体感型古代エジプト展「ツタンカーメンの青春」を観てきました

埼玉県のところざわサクラタウン内にある角川武蔵野ミュージアムで開催されていた企画展「ツタンカーメンの青春」を観てきました(この企画展は現在終了しております)。

開催期間は2023年7月1日〜11月20日でした。

かくして私はいま、ピラミッドの前にいます

エジプトのギザにやってまいりました。
永き歳月を経て、ピラミッドもずいぶんと変形したものですね。

ピラミッドです(笑)
注:本当は角川武蔵野ミュージアム

あぁっすみませんほんの冗談なんで呪いだけはどうかご勘弁をっ!!
ピラミッドはこちらになりますっ!!

入口の撮影スポット。迫力満点の映像です。

「ツタンカーメンの青春」とは

気を取り直して本企画展の解説をさせていただきます。

「ツタンカーメンの青春」は角川武蔵野ミュージアム主催/河江肖剰(名古屋大学高等研究院准教授)監修にて実施された体感型企画展です。「超複製品」の展示と、「本物」をスキャニングした高精細デジタルデータによる映像没入体験というのを前面に打ち出して開催されました。
(開催期間は2023年07月01日[土] 〜 2023年11月20日[月])

本企画展は考古学者のハワード・カーターによって発見された古代エジプトの王族~特にツタンカーメン王の人生にスポットを当てたものとなっております。「19歳という短い人生を王として生きたツタンカーメンの青春時代がいったいどのようなものであったか」「その時代にどう生き、何を思っていたのか」について、その物語を読み解きながら思いを馳せることができる展示構成が行なわれているのが特徴です。

古代エジプト世界への没入感を増すためか、展示物の説明は最小限にとどめられており、見たものを見たままに感じられます。このためいわゆる博物館的なお勉強感がなく、本企画展の主旨である「追体験」により集中できる構成になっていたように思いました。

ほらぁ~角川武蔵野ミュージアムのことピラミッドって言ってんじゃん!!

では、神秘の扉を開けるといたしましょう

まずは入口でムービー鑑賞。
ここでは考古学者のハワード・カーターによる発見の興奮を味わい、それとともにツタンカーメンとは何者であったかについて理解するのです。

観終わりましたか?それでは…

いざ、ツタンカーメンの墓所へ…

「TOMB OF TUT ANKH AMUN」
(ツタンカーメンの墓)

いざ、神秘の奥へ。

「壁の穴を覗いてみてください」だってさ。
何が見えるのでしょう。

ほう…?

なお穴は3つくらいあり、覗く場所によって若干見えるものが異なる模様。

何だろうこれは。寝台かな(適当)。

この場所を守っているかのように立っている2体の兵士(?)。

兵士正面。

エジプトっぽい壁画。
いつも思うけど人体の捉え方のセンス独特ですよね。

この棺はいったい何なのでしょうか?
ツタンカーメンのものにしてはいささか小さい気がするのですが…。

その棺の横を曲がると…。

このような低い入口が。
ここは先に進むしかない!!

ツタンカーメン棺の秘密

おおお!
連なるように並ぶ黄金の箱、箱、箱。
そして大勢の墓荒らし(違うってば)。

黄金の箱に近づくと、その大きさに圧倒されます。
これはいったい何を入れるためのものなのでしょうか?

箱、箱、箱…の向こうには…。

棺、棺、棺。

どうやらこういうことらしいです。

さっき見たちょっと地味めな箱の中にツタンカーメン本人(のミイラ)をこの図のように何重もの棺に入れてフタをする。そしてその箱を黄金の箱×4の箱に順番に入れていき、最終的には五重の塔ならぬ五重の棺に入れて収めていたようです。ホントにっ!?

すべての棺を開けばそこに…。

その棺を、開けてはいけない。

我は蘇りたり~映像にて出現するツタンカーメン

棺の向こうには、大きな空間が広がっていました。
そこにいたのは…。

!!

(遂にこんなところまで来おったか、浅ましい未来人どもよ!!)

太古の眠りより目覚めしツタンカーメン。
物言わぬその眼差しは我々に何を語りかけているのでしょうか…?

なお、他にこのような映像も流れます。

…以上が墓所からのメッセージです。

ここからはツタンカーメンの墓所などに残された記録から、ツタンカーメンの歩んできた人生に踏み込んでいくといたしましょう。

第1章 ツタンカーメンの青春

ちょっと長くなりますが、ここでは展示テキストを引用します。ツタンカーメンとはどのような人物だったのでしょうか。これを読むと、そのおおよそが浮かび上がってきます。

第1章 ツタンカーメンの青春
ツタンカーメン王墓からは5,000点以上の埋葬品が発見されている。 興味深いことに、それらは葬送儀礼に関わるものだけでなく、彼が使用していた日用品も数多く埋葬されていた。 ツタンカーメンは、エジプトの異端王と称されるアクエンアテンの息子であり、父親亡き後の9歳の頃に即位し、おそらく19歳で亡くなった少年王である。 生まれたときは 〈アテン神の生きる似姿〉を意味する「トゥトアンクアテン (日本風に発音するとツタンカーテン)」と名乗っていたが、即位後には国家神である〈アメン神の生きる似姿〉 という意味の 「トゥトアンクアメン」(ツタンカーメン)という名前に変えている。 彼の母は父・アクエンアテンの姉か妹にあたり、近親による婚姻で生まれたと考えられている。 近親婚により身体が弱かった可能性もあり、生まれつき左足が内側に曲がった「内反足」で、王墓からは130本もの杖やその一部が発掘されている。 王墓に埋葬された箱には杖に寄り掛かったツタンカーメンと、彼に花束を渡す妻が描かれており、彼が日常的に杖を用いていたことが示唆されている。また他の副葬品にも、座った状態で矢を射たり、狩りの棒を投げたりといった姿も描かれている。

「ツタンカーメンの青春」展示より

コラム ツタンカーメン王の青春
古今東西、誰にでも青春はある。現代の私たち研究者は、ともすればツタンカーメンを研究対象として見るが、一人の人間として見るのであれば、この展覧会の「青春」という言葉は相応しい。3300年前のエジプトは、多神教から一神教、そしてまた多神教に戻ったという大混乱の時代であり、そのなかで幼い彼は国を纏め、生き抜こうとしていた。当時ツタンカーメンは8~9歳だった。両親を失い、義姉であり妻であるアンクエスエンアメンに支えられながら、生まれつき不自由な足を引きずり、黄金の玉座に座った。自らの名前を唯一神アテンから、神々の長であるアメン神にあやかるものに変え、その復興を宣言した。しかしそれから9年後、マラリアもしくは戦車の事故で亡くなっている。そして政治的理由からか、自分のために作っていた本来の墓ではなく、貴族並みの小さな墓に埋葬された。豪華な副葬品からは想像しがたいが、その青春は儚く、切ないものだったのである。

「ツタンカーメンの青春」展示より
河江肖剰 著

音声付きガイドで見たい方はこちらのQRコードを読み取ってください。
こんな風に、音声付きで説明を聞くことができます。

ツタンカーメンの生活、そして結婚についても書かれています。

第1節 少年王ツタンカーメンの生活
ここでは、少年王ツタンカーメンの部屋を想像して再現した。参考としたのは、ツタンカーメンの祖父であるアメンヘテプ3世のマルガタ宮殿である。 彼が実際に座っていたと思われる「黄金の玉座」と敵を踏みつけるようにデザインした足置きのほか、透かし彫りのある木製椅子、〈生命〉や〈支配〉のシンボルの連続模様があしらわれた木製手箱、歩行を補助する杖、船の模型などがある。当時の王宮の壁や床は漆喰が塗られ、動植物やシンボルなどが描写された。あるいはここでは描かれていないが、子供の庇護者であり病気平癒の神である、ライオンのたてがみを持ち舌を出すベス神がモチーフになったかもしれない。

第2節 ツタンカーメンの結婚
ツタンカーメンは異母弟である。父アクエンアテンの娘アンクエスエンアメン(アンケセナーメン)と結婚している。彼女は唯一の妃で、ツタンカーメンの間に二人の娘をもうけたが、二人とも死産している(第2章にはツタンカーメンの娘だと思われるミイラの複製品を展示している)。玉座の背中があたる部分には、玉座に座ったツタンカーメンと、彼に香油を塗るアンクエスエンアメンが描かれており、一足のサンダルを二人で一つずつ履いているようにも見える仲の良い夫婦が描かれている。

「ツタンカーメンの青春」展示より

では、展示物を見ていくとしましょう。

これが…生きていた頃のツタンカーメンの姿?

埋葬品。日常生活に用いられたものもあるようです。

こういうのは我々の日常品に近い気がしますね。

彼が実際に座っていたと思われる「黄金の玉座」。

椅子の背に描かれているのが奥様のアンクエスエンアメンですね。

敵を踏みつけるようにデザインした足置き」ってこれのこと?
それにしてもこのサンダル履きづらそうなんですが…。

何だろう…私には船の模型にしか見えないのですが…。

続けて第3節の文章を見てみましょう。

第3節 ツタンカーメンの戦闘
王墓には儀式用の戦車や盾、湾曲したケペシュ剣のほか、戦い用トランペットなどの戦闘を連想させる副葬品も納められていた。特にこれらのなかで戦車はこれまで見つかったなかでも最も豪華で洗練されたもので、計6台が解体された形で納められていた。これらの道具から、ツタンカーメンがエジプトを守るために戦士として戦った戦闘の様子を想像することができるが、実際に戦闘に行ったのかは定かではない。しかし身体の弱かった彼が理想的な戦士の王のイメージを表現させたのは興味深 い。一方でアマルナ時代には、行進や祝祭で王や王妃が戦車に乗って民衆の前に出る習慣もあり、さらにその軽量の構造から狩猟に使われたのだとも考えられている。

「ツタンカーメンの青春」展示より

なるほど、それで戦車らしきものが展示されているのか…。

シルバーチャリオットならぬゴールデンチャリオットですね。

楯も黄金。当時のエジプトってこんなにふんだんに黄金があったのか…。

トランペットまであったとか…。
3,300年以上前なのに何でもあったんだなぁ。

第2章 古代エジプトの死生観とミイラ

ここからはエジプトの死体保存法「ミイラ」の話です。

第2章 古代エジプトの死生観とミイラ
古代エジプト人は「死」をどのように捉えていたのだろうか。ミイラ作りを含めた死者の埋葬方法から、当時の人々の死生観について考える。死生観には、エジプトの自然環境が影響している。エジプトでは、古来年ナイル川が氾濫していたが、それが肥沃な〈黒い大地〉を生み出した。氾濫と豊穣の繰り返しは、人間の再生に関わる死生観に結びついている。一方、毎日繰り返される太陽の動きは、永遠の秩序であった。日没後に暗闇の世界を経て、日の出とともに再生を果たす太陽は、死後の再生・復活や、来世での永遠の命の象徴として捉えられていた。太陽神ラーは舟に乗って、昼は天空を、夜は死者の世界である冥界を移動していると考えられた。

「ツタンカーメンの青春」展示より

コラム 古代エジプトの死生観とミイラ
私がエジプトで最初に経験した考古学調査は、サッカラ遺跡での末期王朝時代のミイラの発掘だった。彼らは王族や貴族のような墓を造ることができない民衆で、エジプト最古のピラミッドの西側の砂漠にただ埋められていたが、遺体は地層のように幾重にも重なっており、1シーズンで数百体掘り出した。そのなかに、明らかに家族と思われる両親と子供のミイラが寄り添うように埋葬されていた。古代エジプト人は来世を信じ、そのためには肉体の保存が不可欠だと感じていることはよく知っていた。そのため、学術的な目的とはいえ、彼らの眠りを妨げることには抵抗があった。考古学は業が深い学問である。墓を暴き、埋葬品を掘り出し、古代 の死者を現代に呼び覚ます。それは財宝を求めてではなく、今も昔も変わらない人間について知ろうとするためだ。しかし、それは知識という名の別の形の貪欲さであることは常に忘れてはならない。

「ツタンカーメンの青春」展示より
河江肖剰 著

上記の、「考古学は業が深い学問である。(中略)…それは知識という名の別の形の貪欲さであることは常に忘れてはならない」は非常に共感、感動を覚えたとともに、研究者などではない私などにしても心に戒めておかねばならない心構えであると感じました。

第1節 死者は来世で生き続ける
古代エジプトでは、死は終わりではなく、地上の生活から来世への移行とみなされていた。 エジプト人はいわゆる 「魂」の念を信じており、カー、バー、アクといった様々な要素で構成されていた。カーは人間の霊的な部分の 一つで、供物を受け取り、生命力を維持する。 バーは人間の肉体以外の個人・人格にあたり、人間の頭をした鳥で表現され、死後には肉体を離れ、自由に飛び回ることができる。 死後、人間は肉体からカーとバーが一旦分離し、その後はカーとバーが喜び合わさり、「祝福された魂」であるアクとなり、来世で生きていくとされていた。彼らは、死と来世に関する複雑な信念体系を築き、それに合わせた儀式を行った。古代エジプトの埋葬には、死者のミイラ化、来世に無事に到着するためのガイドブックともいえる「死者の書」などの葬送文書の朗唱や、来世で使用す 商品を納めることが含まれており、さらに死者が来世で働かなくてよいように、農耕や灌漑などの仕事を行うシャプティ〈応える〉と呼ばれる小像も埋葬された。

「ツタンカーメンの青春」展示より

これが、そのシャプティ(小像)なのでしょうか。
しかし「死者が来世で働かなくてよいように」って、何か人間っていつの世も変わらないんだなぁと感じます。

何だろう、これは…?

箱の中に寄り添うように入っている4体が気になります。
男性?女性?
どういうシチュエーションを想像すればいいのだろうこれは?

第2節 ミイラになって再生、復活する
「ミイラ」とは日本の呼称で、ポルトガル語で没薬(もつやく)という意味の「mirra(ミルラ)」と、中国の書物に載っていた「木乃伊」が合わさり、「ミイラ」と呼ばれるようになった。 没薬はミイラ作りに用いられる薬である。 古代エジプト人が信じた冥界の神オシリスの信仰では、死者は太陽神ラーとともに舟で冥界のナイル川を渡り、その旅を経てオシリスの館へ向かうとされていた。そこで彼の審判を受け、許されれば来世で再生・復活し、楽園に永遠に暮らせると考えられていた。そのためには再生・復活後に宿る肉体が必要であったため、ミイラが作られるようになった。

「ツタンカーメンの青春」展示より

何だろうこれは…。
トロフィーがいっぱい並んでいるようにしか見えないよ(罰当たり)。

ミイラはこのようなポーズにて作られるみたいですね。

第3節 ツタンカーメンのミイラ
ツタンカーメン王のミイラは17層の亜麻布の包帯で包まれ、その間に140点を超える護符などの品々がつけられていた。 護符にはフンコロガシであるスカラベや、ハゲワシ、ヘビなどの動物のほか、パピルス草を模したパピルス柱、 穀物の穂を段上に括りつけた竿の形をしたジェド柱など、建物の一部を表したものもあった。ミイラには黄金のマスクが 被せられ、三重の棺の一番内側の黄金の棺に納められていた。それらの棺は珪岩の塊を削って作られた石棺に収められ、さらにその上に4つの厨子が被せられており、彼が厳重に守られていたことが分かる。

「ツタンカーメンの青春」展示より

ツタンカーメンが納められていた黄金の棺と装飾品(かな?)。

これらも装飾品なのでしょうか。

またもや履きづらそうなサンダル登場。

第4節 ミイラ保存のプロセス
古代エジプトのミイラ作りは、死者の体を来世に備えて保存するためのプロセスである。 体の洗浄、 内臓の除去 (心臓は残す)、炭酸ナトリウムなど複数のナトリウム化合物が混合したナトロンと呼ばれる防腐剤で処理し、亜麻布の包帯で包むという作業を行うことにより体を腐敗から守り、死者が、確実に来世への旅ができることを目的としていた。エジプト人は、再生・復活には、体そのものも保存しておくことが不可欠であると信じていたのである。ミイラ作りは砂中に埋葬した遺体が自然にミイラ化しているのを発見し、遺体の保存を試みるようになったのが始まりといわれている。もともとは自然乾燥で作られていたが、おそくとも古王国時代には心臓以外の内臓と脳を取り出し、遺体の内外をナトロンに漬け、乾燥させる方法で作られるようになった。脳は鉤棒(かぎぼう)で遺体の鼻孔に穴を開けてかき出し、乾燥後に遺体を洗い、亜麻布の包帯を巻き、樹脂を塗り、完成となる。

「ツタンカーメンの青春」展示より

「脳は鉤棒(かぎぼう)で遺体の鼻孔に穴を開けてかき出し」って生々しいなぁ…。しかし防腐剤まであったのね3,300年前のエジプト。

何とハワード・カーター、驚くべきことにミイラのスケッチまで描いておりました。

何枚描いたのよこの人…。

しかしいくら防腐剤を駆使して保存したとはいえ、3,300年前の死体がそんなキレイに残っているはずもなく。どんな手掛かりをもとにしたかは知り由もありませんが、ここまでキチンとしたミイラのイメージを描くことができたのはさすがです。

第3章 古代の神聖な文字ヒエログリフ

ヒエログリフってのは、このような絵文字のことですね。
エジプト関係を見ているとよく出てくるやつです。

第3章 古代の神聖な文字
ヒエログリフは神殿、墓といった建物や、石碑、彫像などに記されていた古代エジプトの象形文字である。名前の由来はギリシア語のヒエロ〈神聖な〉とグリュフィカ 〈刻まれたもの〉からきており、古代エジプトでは 〈神の言葉〉あるいは〈神聖な書き物〉を意味するメドゥネチェルと呼ばれていた。書記や神官、王などの限られた人たちだけの特権の一つであった。記録として残されている最後のヒエログリフは紀元後324年であるため、1822年に解読されるまでの約1400年間、ヒエログリフは未解読の文字であった(現在、古代エジプト語はコプト正教会で使用されるコプト語に残っているが、言語復興運動を除いては口語で使われずコプト正教会の典礼の一部で用いられている)。古代エジプト人が刻んだ言葉たちから、彼らに想いを馳せてみる。

「ツタンカーメンの青春」展示より

コラム 古代の神聖な文字ヒエログリフ
エジプトで大学に入学してヒエログリフを勉強し始めたとき、古代エジプト の思想が、生々しく感じられるようになった。 例えば、歴代のファラオが眠 る「王家の谷」は、シンプルにタ・セト・アアト 〈偉大な場所〉と呼ばれており、谷から望む砂漠の峰はメリトセゲル 〈沈黙を愛する> 女神として崇拝さ れていた。そういった言葉によって、古代エジプト人が当時その地に対し て、どのような感覚を持っていたのかがひしひしと伝わってきた。ツタンカ ーメン王墓の壁画には、王宮の友人たちが彼の棺を運ぶ際の言葉が記されている。「死者の世界である西方へようこそ!」という単純な文言だが、アテン信仰では、死者はオシリスのいる西方の来世に行くのではなく、太 陽が昇る東方の現世に生き続けるとされていたことを思うと、その言葉の深い意味が伝わってくる。言語とは単なるコミュニケーションの手段ではなく、それは世界の理解の仕方でもあるのだ。

「ツタンカーメンの青春」展示より
河江肖剰 著

ここからはペンライトを持って入らなければならないらしい。
神秘の奥底を探る冒険の予感…。

暗闇に挑む冒険を予感していたのですが…。

発見できたのは、ヒエログリフとやらの説明ばかり。

うんそうだよね、日本語だって「あめ」=「雨」「飴」の違いまぎらわしいもんね…。でもこれって、わざわざライトで照らして探すような情報なんでしょうか?

ヒエログリフは左右どちらからも読むことができるとか。深い。

ここの第3節は文字起こし割愛します!
文字量多すぎる上に暗くてあまりちゃんと撮れなかったので!!
写真たくさん並べるのでそれで読み取ってちょ。

写真ブレブレなのはどうかご勘弁を(泣)。
とりあえず主催者の方、暗闇の中ライトまで持たせて探索させるんなら財宝でも用意しておいてください!!

第4章 古代エジプトの信仰

いよいよ最終章。ここでは古代エジプトの神々について語られるとともに、ツタンカーメンを巡る物語の核心である(と私が思っている)ツタンカーメンの父アクエンアテンについて掘り下げられます。

第4章 古代エジプトの信仰
古代エジプトの宗教は、多くの神々を崇拝する「多神教」であった。 自然や動物の化身として太陽や空や星、哺乳類、は虫類、鳥類、虫の神などの様々な神がおり、その数は1500柱にものぼる。代表的な神としては、王権の象徴であるハヤブサの神ホルス、愛と美の女神ハトホル、大気の神シュウ、湿気の女神テフヌト、大地の神ゲブ、天の女神ヌト、冥界の神オシリス、混沌の神セト、ミイラ作りの神アヌビスなどがいる。その中心には「神々の王」と呼ばれる太陽神アメン・ラーがいた。ツタンカーメンの父であるアクエンアテンは、アメン・ラー信仰から太陽円盤の神であるアテンのみを崇める宗教改革を断行した。しかし、大衆から支持を得ることはなく、王を継いだツタンカーメンにより国は多神教に戻された。アテン信仰が民衆に根付かなかった理由のひとつは死者の再生と復活を約束するオシリス信仰を否定したためと考えられるが、ツタンカーメンの墓にはオシリスが描かれ、その復興が見て取れる。

「ツタンカーメンの青春」展示より

コラム 古代エジプトの信仰
トゥトアンクアテン 〈アテン神の生ける似姿〉という名前は特殊だ。この時 代、王の息子は学問の神「トトの息子」を意味する「トトメス」、あるいは 国家神である「アメンを満足させる」という意味の「アメンヘテプ」が一般的だ。 唯一神アテンには他の神々と違って彫像はないが、自分の息子アテン神の化身のような名前をつけたのは、アクエンアテン自身の強い思想があったからかもしれない。しかしアクエンアテンの死後、息子の名前はトゥトアンクアメン 〈アメン神の生ける似姿〉(ツタンカーメン)に変わり、幼い彼の顔をしたアメン・ラー神の彫像がエジプト各地に作られていく。これはアクエンアテンの治世で抑え込まれていた多神教の神官の強要だったのだろうか?それとも彼自身の願望があったのだろうか?副葬品にも書かれている彼のこの2つの名前から、混乱の極みにあった当時のエジプトを垣間見ることができる。

「ツタンカーメンの青春」展示より
河江肖剰 著

「古代エジプトの信仰」ということで、ここの展示はエジプトの神様を偶像化したものが主になっています。

これはアヌビス神(たぶん)。第4章の案内板ではミイラ作りの神と紹介されていましたが、冥界の神ともされています。特徴はやたら長い耳。

エジプト神話で蛇の神様といえばサ・タ…かなぁ?
(違ってたらゴメンナサイ!)

これは…どっちかがラー(太陽神)でどっちかがホルス(天空神)だと思います。どっちもモチーフが隼なので…これも違ってたらすみません。

これは…羊っぽいからクヌムでしょうか。創造神で人間を作ったとされています。例によって違ってたら(以下略)。

このようにエジプトにはたくさんの神様がいるのです。
(分からないからごまかしたな)

第1節 多神教を否定した父アクエンアテン
ツタンカーメンの父は、もともとは〈アメン神は満足する〉を意味するアメ ンヘテプ4世という名前だったが、その治世4~6年に自らの名前を〈アテン神に有用な者〉という意味のアクエンアテンに改名した。彼は国家神アメン・ラーを頂点とする多神教を廃止し、太陽円盤の神アテンのみを崇拝する一神教へと宗教改革を行い、「王以外にアテンを知る者はいない」と唱えた。伝統的な神殿では最奥にある「至聖所」は狭く暗い神秘的な雰囲気が漂う場所だったが、アテン神殿では至聖所の天井はぽっかりと空き、太陽の光が燦々と差し込むよう設計されていた。神殿 にはアクエンアテンが登壇する「台座」があり、そこで彼はアテンを崇拝し、周りに大量の貢ぎ物を捧げていた。彼は伝統的な神々の祝祭を禁じ、〈神々〉を意味する「ネチェルウ」を削り、単数形の「ネチェル」に改めさせた。特に、アメン・ラーへの迫害はひどく、彫像は破壊され、あらゆる記念物から彼の名前が削られた。

「ツタンカーメンの青春」展示より

こいつが、そのツタンカーメンの親父であるアクエンアテンらしい。

エジプト関係を漁っているとよく出てくるこの形。これこそアクエンアテンが唯一神とした太陽円盤の神アテンです。

第2節 八百万の神々の特性
唯一の神として太陽円盤のアテンが信仰される以前の多神教では、どのような神々が信仰されていたのだろうか。 古代エジプトの八百万の神々を一部紹介する。
(個別の神々の紹介についての文字起こしは割愛します)

「ツタンカーメンの青春」展示より

第3節 神官の階級と役割
神宮は神々に仕える役割を担っていた。 後に神官の階級が厳密に構成され、専門の神官職が配置されるようになった
(中略)
アクエンアテンはそれまでの伝統的な神官システムを否定し、父であるアテンの声が聞こえるのは子である自分だけだとして、自らを大神官として位置づけた。

「ツタンカーメンの青春」展示より

私はこう思う~ツタンカーメンの最期について

<注記>
これより本章で書くことはあくまで私がこの企画展を見て個人的に思ったことであり、考古学的見解に基づく見解や事実などではございません。かなり荒唐無稽なことをお話しすると思いますが、それをご承知のうえでお読みくださるようお願いいたします。

今回あえて展示パネルの文字起こしをしてまでツタンカーメンの物語を記載したのには理由があります。私の心に生じた疑問点、そしてそこから導き出した推理について、よろしければ皆様にも一緒に考えてもらいたいのです。

物語を思いっきし乱暴に要約するとこうなります。

ツタンカーメンの親父はそれまで多神教だった国を一神教に変えてしまい、しかも自分はその唯一神のただひとりの神の子だと名乗りました。そのうえこれまでの信仰に対して苛烈な弾圧を行なったとか。自分の子供(ツタンカーメン)にまでその唯一神の名前を含めて命名したというから、その信念が強固なものであったことが伺えます。

この親父が死んだあと、ツタンカーメンは自分の名前を元々の多神教の神の名前を含んだものに改名し、親父の行なった宗教改革を否定して民衆が元々信仰していた多神教の教義に再び戻すという、言わば宗教の革命返しみたいなことを施行したわけなのですね。

あの若さで国を復興させたというツタンカーメンの勢力はかなりのものだったのでしょう。この企画展で示されていたような豪勢な葬られ方を見れば、その実権の強大さが伺い知れるというものです。たとえ彼が19歳という若さで亡くなられたとはいえ。

そう、分からないのはそこなんですよ。

ツタンカーメンって何で死んだの?

ここで、先ほども引用した河江肖剰先生のコラムをもう一度紐解いてみたいと思います。

コラム ツタンカーメン王の青春
(前略)
自らの名前を唯一神アテンから、神々の長であるアメン神にあやかるものに変え、その復興を宣言した。しかしそれから9年後、マラリアもしくは戦車の事故で亡くなっている。そして政治的理由からか、自分のために作っていた本来の墓ではなく、貴族並みの小さな墓に埋葬された。豪華な副葬品からは想像しがたいが、その青春は儚く、切ないものだったのである。

「ツタンカーメンの青春」展示より
河江肖剰 著

私が一番分からない、というか納得できないのはそこなんですよね…。

結婚生活だの妻と仲が良かっただの足が不自由だったのとプライベートに関する情報が山盛りの男が、死因不明っておかしくないですか?

あんな黄金のマトリョーシカみたいな多重に渡る棺までこしらえていたのに、何故死んだのかすら分からずに箱に入れられちゃったの?

しかもその死因の書き方も気になります。
マラリアと戦車の事故じゃ死に方に天と地ほどの差があるんだけど?
死因がないと困るからって適当言ってないですか?

私の推理を言っちゃいますね。


ぶっちゃけツタンカーメンって暗殺されてると思います。


そう思う理由その①。他の記録がいろいろ残っている割に、死因がちゃんと記録として残っていないこと。

そう思う理由その②。王族の中には先代の王(ツタンカーメンの親父)に与する派閥も少なからず存在したであろうことが推測されること。

そう思う理由その③。「自分のために作っていた本来の墓ではなく、貴族並みの小さな墓に埋葬された」という理不尽な仕打ち。


私の推理順で言うと、最初は理由その①に着目してしまいまして。
「あれ?この話何かおかしくない?」
ってなって、パネルの文章を真面目に読んでるうちに疑惑が確信に変わっていったというのが正直なところ。

理由その②に関して言えば、そりゃそんなことを裏付ける証拠なんて残ってないだろうけどさ。でも古今東西の世界史を見れば、この世のどこの王朝や政府にだって対抗勢力ってのがいるわけで。ましてやツタンカーメン王政は王様が変わるたびに信じる神を変えろって言ってるわけですから、どっちが正しいかを巡って国の中は滅茶苦茶だったと推測されるのです。現代だって教義の違いとやらで引き起こされる紛争がいくらでもあるわけですし。親父側の神(アテン)を篤く信仰する側からしてみたら「亡き先代が奉りし神を汚す反逆の子よ、神に代わりて成敗してくれん!天誅!!」っていう勢いの奴だって出てくるんじゃないかなぁ。

で、仮にそういう死に方をしたとしたら、理由その③のようなことになったのも至極納得がいくんですよ。

既に遠き昔に亡くなりいまでは歴史の彼方に眠る偉人のことを、こんな風に憶測すること自体が不謹慎だという向きもあるかも知れません。人によってはファラオの呪いが降りかかるとか言う方もおられるでしょう。

ですが、どのように亡くなったかなどというご本人を語るうえで最も重要なところかが曖昧なままだというのは、それはそれでご本人にしてみたらどうなのかな…と思う向きもあるわけでして。

うーん、上手く言えませんが、刑事ドラマでもたまにこういう言い方することあるじゃないですか。

「このままじゃホトケ(故人)が浮かばれねえ」

まぁ、そんな気持ちがふと、頭をもたげてしまったのですよ。

ネットで調べてみました

どうにもスッキリしない私は、ネットでさらに調べてみることにしました。

こちらはロイター、2010年2月の情報ですね。それによると、

ツタンカーメンは、内反足と骨の痛みのため足を引きずって歩き、転倒か何かによる骨折にマラリアが重なって死んだ可能性が高いという。エジプトやドイツなどの専門家が16日発表した調査結果で明らかになった。
(中略)
研究チームは2007─09年に王族のミイラ16体を対象に遺伝学的検査と放射線を使った検査を実施。ツタンカーメンを含む4体が重度のマラリアに感染していたことを突き止めた。

ロイター「世界のこぼれ話」より

…とのことです。まぁそこまで科学的な調査をしてその結論に至ったのであれば、少なくともマラリアに感染していたのは確かなのでしょう。

ツタンカーメン王が抱えたさまざまな疾患は、時間をかけて王の免疫システムを弱らせていったとみられる。報告書は、王が免疫不全の状態で、「おそらく落下により、突然足を骨折」したために命にかかわる状態となって、マラリアに感染し死亡したのだろうとの見解を示した。

AFPBB Newsより

これも2010年、AFPBB Newsの情報です。

お体が弱かったのもこれらを含めた複数の情報ソースから確かであるようなので、骨折+マラリアというのは本件に対するおおむね多数派の見解であると言えるようです。

あれ?でもさっきの河江先生の見解では「マラリアもしくは戦車の事故」って言ってなかった?

このことについては私もネットでいろいろ検索してみたのですが、これだという情報を見つけることはできませんでした。まぁ、これらのことを混ぜて考えると「戦車から落ちて足を骨折し、マラリアに感染して死亡」ということになるのでしょうか…。

戦車ってこれね。

それでは、暗殺説の方いってみましょうか。

googleで「ツタンカーメン 暗殺」とかで検索してみると…。

おぉ、最初に検索で出てきたサイトでいきなり暗殺説覆されちゃったよ!!

でも、

36年前にX線で調査した際、ツタンカーメン王の頭蓋骨内に骨片が見つかったことから、19歳の少年王は頭部への殴打が原因で死亡したのではないかとする暗殺説が考古学者の間で有力となっていた。

死因を特定するため、調査チームは今年1月、エジプト南部ルクソール近くの「王家の谷」でツタンカーメン王のミイラを墓から取り出し、CTスキャンで断層画面を撮った。

調査メンバーのリューリさん(チューリヒ大学解剖学部)は「頭部を殴られた痕跡はなく、頭蓋骨内の骨片は死後にできたもので、死因ではない」と話す。


SSWI swissinfo.ch より

やっぱり私と同じこと考えてる方いたんだ…。

でもちょっと待って!?「撲殺じゃないから暗殺じゃない」っていうのはあまりに短絡的過ぎません?問題はツタンカーメンの周囲に殺意を持っていた奴がいたかどうかであり、そして暗殺なんてやろうと思えば、状況さえ整えば手段はいくらでもあるんですよ?

いろいろ調べていたら、何かえらく物騒な説を見つけたぞ…?

これはツタンカーメンの妻であるアンケセナーメンについて書かれたウィキペディアですが…

ツタンカーメンの早世後は、ファラオを継いだアイの妻となるが、アイは、祖母ティイの兄弟にあたるといわれ、実際に祖父アメンホテプ3世の時代から名を馳せていた神官であるので、年齢差が相当大きかったのではないかと思われる。この新しい夫には前夫ツタンカーメン暗殺説もあり、それらを踏まえたうえで、アンケセナーメンは、小説や漫画では運命に翻弄される悲劇の王妃として描かれることが多い。また、アンケセナーメンはアイとの結婚を嫌い、ヒッタイトの王、シュッピルリウマ1世にその王子を婿に迎えて国王としたいとの手紙を送った。シュッピルリウマ1世は、王子ザンナンザをエジプトに送ったが、途中で暗殺された。暗殺したのはアイだという説がある。一方で、アンケセナーメン自身がアイと共謀しツタンカーメンを暗殺したという説もある。

ウィキペディア「アンケセナーメン」より

調べてみると結構出てくるんですよね、犯人アンケセナーメン説。いやいやさすがにそれは現代ドラマの見過ぎじゃないのと思ってしまいます。しかもウィキペディアがそれ載せちゃいますか?こんなこと書いたらそれこそツタンカーメンに怒られるんじゃないのかなぁ。

とりあえず調べてみたところでは、骨折+マラリア説が本件におけるデファクトスタンダードであり、暗殺説はどちらかというとトンデモに類する扱いだということが分かりました。

私もまだ納得したわけではありませんが、だからと言って3,300年前に亡くなられた方に対する犯人捜しをしたいわけでもありません(と言うかできません)。ただ、あの企画展を見て、少なくとも私自身はそうとしか考えられなくなったということを書き残しておきたかったのです。

かなり長くなりすぎました。そろそろ締めに向かいましょう。

「ツタンカーメンの青春」お楽しみとお土産

本企画展は展示だけでなく、デジタルを用いた様々な要素においても楽しめるものでした。その一端を紹介します。

NFTカード(ツタンカーメン展入場特典)

この「NFT」っていうのは、専用アプリ「DiverWallet」をインストールし、ユーザー登録すると、会場のあちこちにあるQRコードから「ツタンカーメン展入場特典」の画像をゲットできるようになります。

こんな感じです。ちなみに13枚あったそうですが私は10枚しか集められませんでした。スタッフの方に聞くと「残り3枚は4階の本棚劇場に」とのこと。何でやねんー!!

メタバース

会場内のQRコードを読み取ると下記サイトに行けます。

この画像をクリックしても飛べます。

実際にメタバースで遊んでみました。

パソコンでも遊べました。
アバターを設定したり人に話しかけたりいろいろできそうです。

撮影スポット

会場前の空間にはこのようなプロジェクター映像による撮影スポットが用意されておりました。

こういうの見ると、行ってみたくなりますね。

お食事

角川武蔵野ミュージアムの2階にあるKadoCafeでは、このようなプリントラテが提供されていたようです。

こちらは角川武蔵野ミュージアムの5階にあるSACULA DINERにて。
「ツタンカー麺」って…。
興味あったけど、さすがに2,200円はちょっと…。

御朱印

日本の神道とエジプトの神々がまさかのコラボ!?
どちらも八百万の神を有しているってことで、いいのかな?

お土産

角川武蔵野ミュージアム内のロックミュージアムショップでは、期間限定のツタンカーメングッズをたくさん販売しておりました。

もはや何でもアリな感じしかしません。あの世でツタンカーメンも苦笑いなさっていることでしょう。ごめんねツタンカーメン、日本人オバカで…。

ちなみに我が家ではこんなのを買いました。

なんとツタンカーメンボールペンです。妻いわく「宅急便屋が来てサインを求められたときに使用する」のだそうです。
いやはやツタンカーメン現世でも大活躍ですな。

私的にはこんなのも興味あったりして…。

オチがついたところで、本記事はそろそろ締めにいたします。

まとめ~ご意見ご感想受け付けます

いろいろ書きましたが、筆者はツタンカーメンご本人に敬意を持って本稿を記しましたことを最後に付け加えておきます。河江先生は「考古学は業が深い学問」と言い、続けて「知識という名の別の形の貪欲さ」と仰いました。それは確かに然りなのですが、私はそこをあえて「愛」という言葉に置き換えてもいいんじゃないかと考えます。対象をより深く知りたい、本当のことが知りたいというその情熱は、すなわち愛と言っていいんじゃないかと。この企画展はそんな愛に満ちたものであると感じました。

本記事を書いた私がツタンカーメンご本人に対して愛と呼べるほどの感情を抱いていたかは分かりません。むしろエジプトの神々なんて「とーとつにエジプト神」くらいの知識しかなかったくらいの私ですが、本企画展によって真実を知りたいという気持ちが深まったことは確かです。真に迫る展示にはそういう力があるとあらためて実感した次第です。

本記事を読んで、「いやいやツタンカーメンに関する真相はこうなんだよ」とか「お前は全然分かっておらん」「呪ってやる!」等のお言葉は甘んじて受け付けますので、この記事のコメント欄に書いていただくか私宛にメールください。内容によっては続編を書くことも検討します。

chitoseArkへのメール:
CQF01770@nifty.ne.jp

気づいたら16,000文字overだよ!!(引用が大半ですけれども)
うーん、私もすっかりツタンカーメン世界に引き込まれてしまったのかも?

(了)

この記事が参加している募集

イベントレポ

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?