存在と世界 1


第一:存在者とはなにか

1.存在者とは世界内にあるすべてのものである。

 存在者とは存在するものの全て(のそれぞれ)である。存在するということは、存在しうるということである。※1 存在者しうるものは、世界のうちにある。そして、われわれ(人間だけでなく動物や植物といった、「何らかの形で存在者を捉えることが出来る」存在者)が捉えうる全てのことがらは、存在しうるものである。つまり、幻覚、妄想、空想といった、「存在しうるが、現実にはそうでは無いようなこと」もまた、存在者として扱われるものなのである。言い換えれば、「われわれは存在しえないものを捉えることが出来ない」のである。
存在者自体には、単純な属性と、それに付属する価値はない。存在者自体により発せられる刺激―その存在者自体が保有する単純な属性であると考えられるものではある―自体は、単純な属性では無い。われわれの感覚的確信によって初めて、その存在者の単純な属性と価値が発見され、その存在が確認されるのである。例えば、肉片はただ肉片であるだけではなんの属性も価値も持たない。なにものかがその肉片から発せられる刺激を受け取ることで、初めて「肉片」であるという単純な属性と、「食料である」という価値が発見される。本質的な価値はいかなる存在者にもない。単なる存在者としてのそれは、ただ存在しうる。ただし、「感覚的確信によって確認されない存在者」が存在するかどうか、と言った問題は、回答不可能である。「感覚的確信によって確認されない存在者」とは、そもそもわれわれの対象とはなり得ないから―つまり、そのようなものを対象とした瞬間に、そのようなものはそのようなものではなくなり、「感覚的確信によって確認されるもの」となる―である。だから、われわれは、そのようなものの存在について述べることは出来ない。
さて、われわれの感覚的確信によって存在者の単純な属性と価値が見出されるのであるが、感覚的確信は、現実に存在するものだけではなく、存在しうるすべてのものをその範囲としている。「ESP」だとか「ヴィジョン」と言った言葉が示すごとく、感覚的確信は、非-現実的なものについての存在についても確認可能である。神秘主義が往々にして「超現実的な」「言語化不可能なもの」を対象とするのは、感覚的確信が、現実だけでなく、非現実の存在者の存在も確認可能であるからである。例えば、夢を見ている時、その夢の内容は事実であると確認されうる。しかし、夢から覚めた後の夢の内容は、事実ではなく、逆に夢から覚めたあとの「現実」が、事実であると確認されている。つまり、感覚的確信は、存在者の存在を、その単純な属性と価値の発見によって確認するが、それが現実であるか、非現実であるかについては判断が出来ない。「丸い四角」のようなありえないものであっても、われわれが対象にしうる限り、存在しうるもの、存在者である。
※1 端的に言えば、「存在する」ということには、「現実に存在している」ということと、「(現実に存在しているしていないに関わらず)存在することが出来る」ということのふたつのことが含まれている、ということである。

2.言語はいかにして存在者を伝達するか


最初にことわっておくと、言語は、感覚的確信において思いなされているもの、感覚的確信がまさしくそう発見し、確認しているところのものを、そのままそう伝達することが出来ず、それぞれの者同士で差異のある形で、発見、確認されるようにし、自分自身に伝達する場合でも、言語によって外化されることで、別の形で発見、確認されるようにする。それぞれの者同士では、それぞれ感覚的確信のあり方は異なる。生まれつき感覚が敏感なもの、鈍感なもの、といった量的な強弱だけでなく、感覚がどのような形で存在者の価値を発見するか、という質的な部分においても非常に多様な差異がある。―われわれの数だけ、そのあり方は存在すると言ってよい。―実例を挙げれば、あるひとりの人物をどのように評価するか、怖そうなのか優しそうなのか、といったこと、だまし絵を見て、アヒルを見出すのかうさぎを見出すのか、ある図形からどれだけの三角形を見出すか、などキリがない。言語は、異なった感覚的確信のあり方をもつ者同士の間で、共通の理解を可能とするものである。言語には、単一の価値はありえない。単一の価値を設定すれば、言語はその効用を失う。言語は、表出された時と、受容された時では、異なる意味を持っている。加えて、Aが受け取った言語と、Bが受け取った言語の間では、また異なる意味を持つ。
加え、言語は、自己自身に向けられるものであっても、表出と受容の間に差異を持つ。例えば、十年前の自分と、今の自分は、果たして今の自分と言えるか。同じものに向けられた感覚であっても、十年前と現在の自分とでは、その感覚の内容は異なるのではないか。作文や論文を、自分で添削するということは、言語が外化されることで、表出された時と異なる意味を持つことができるようになるから、その効果を持つものなのではないか。
これだけでは、言語は未だ共通理解を可能とするものでは無い。具体的に言えば、表出と受容の間に中間項がない限り、言語は統一性を持たない。言ってていないこと、書いていないことをもその言葉の持つ意味として認めることとなってしまう。言語が言語として、理解可能なものであるためには、書かれたこと、話されたことそのもの、テクストが、表出と受容の間の中間項となる必要がある。そのテクストに書かれている限り、話されている限りにおいて、言語の意味は真となる。逆に、テクストに書かれていないこと、話されていないことによる言語の理解は真ではない。ここで断っておきたいのは、言語に単一の価値がないごとく、テクスト自体には、単一の真理―あくまで、言語の意味が、共通理解が可能であるか、という意味においての―はない。つまり、テクストには単なる一つの理解、意味は存在しない。
ところで、テクスト自体は言語の全体では無い。言語とはひとつの、共通理解を可能とする作用である。言語が行為でないのは、言語が表出する者と受容する者の間で相互に作用するものであるからである。言語とは一方向的な、表出者が対象となる世界に対して行う行為ではなく、表出者と受容者の間に取りかわされる言語理解の作用である。加えて、表出者自身に向けられた言葉であっても、表出者が持つ言語の意味が外化されることによって、感覚的確信から、理解可能な存在に移行する。そうなることによって言語は、表出された際とは異なる意味を持つに至るのである。

3.感覚的確信はいかにして言語となるか

端的に言えば、感覚的確信は、外化によって言語となる。感覚的確信がそれぞれ固有のものとして持つ内容である属性と価値は、言語化不可能な内容である。言語は、感覚的確信の持つ内容、属性と価値を、外化によって単なる理解可能な存在へと変える。感覚的確信の持つ属性と価値は、言語においては理解可能な記述として、属性と価値の判断をそれぞれの受容者に委ねる。言語においては、属性と価値は、受動的なものとなるのである。言語の受容とは、表出された言語の、属性と価値を失った理解可能な存在を、再び属性と価値を持つ感覚的確信に翻訳することである。ただし、この場合において参照される感覚的確信とは、元の感覚的確信におけるものではなく、受容者における感覚的確信であるため、表出者による感覚的確信、言語の元となる感覚的確信とは差異のあるものとなる。感覚的確信は、外化によって属性と価値を失い、理解可能な存在としての言語となる。
ところで、ここで上げた言語の法則とは、あくまで言語の理解における第一段階、言語が単純な理解可能な言語であり、言語を受容した時の「感覚的確信」による理解でしかない。これ以上の記述は、私の能力の限界となるため省かせていただく。切に謝罪する。


4.実在者がいかにして実在者として確認されるか

感覚的確信は、存在者の存在を、属性とその価値の発見によって確認するが、あくまで存在しうるもの全てとしての存在者の存在を確認すること、つまりそれが現実の存在、実在であるか、そうでないか、ということについては確認しない。ここでは、実在と、非実在の区別が、いかにして行われるかを考察する。
実在であるとは、それが確かであることである、とも換言ができる。となれば、ここで思い起こされるのは、デカルト的懐疑である。疑いうるものは取り去って、疑いえないものをひとまずの実在とする必要がある。全て疑いえた末に、「私」が疑いえないもの、正確に言えば「思考の前提としてあるがために、それが実在していると『前提』しなければ思考が成り立たない」ものとして現れてくる。ここでは懐疑は未だ独我論的な、「私の存在だけが確かな実在である」という原理の元にとどまっている。しかし、「私の存在だけが確かな実在である」というこの原理は、「私の精神が独立したものである」という前提に基づく。しかし私は独立では無い。私は、私では無いものを媒介して、つまり「他の者ではないこと」によって、私であるのだ。つまり私という実在は、私では無いもの、という実在では無いものを通さないと存在しえないものとなる。というのも、私であるという概念が存在しえるためには、私でないものが必要となる。存在者が、「われわれ」を通してその存在が確認されるがごとく、私という存在も、私では無いものを通してその存在が確認される必要があるのだから、私でないものの存在もまた、私の存在において不可欠なもの、私の存在のひとつと言える。だから、私は、私であると同時に、私では無いものでもある。ただし、だからといって私の実在性が疑わしい訳ではなく、私の存在は未だに疑いえないことである。
ここでデカルトの実在性に関する懐疑が否定される。こうなると、ふたつの立場が示される。「実在など存在しない。あったとしても分からない。」というニヒリズムと、「実在は感覚的にわかるものだ。」という直観主義に分かれる。だがしかし、先にも述べたように、直観的なもの、感覚的確信においては、存在者の存在は確認可能であるが、それが実在であるかについては確認されない。このような直観主義は、感覚的確信の捉える存在者を実在者として無条件に肯定する。しかし、実在とは「現にそうなっていること」なのであって、決して妄想や幻想と、加えて理念といったものは実在のそれでは無い。
ここでは、私は「確かな実在の存在は捉えらない」という消極的なニヒリズムを取る。というのも、実在全ての否定とは、単純に言えば疑いえない私すらも否定することとなり、思惟、学術、存在の全てを否定することであるからだ。われわれの意識は、実在性を確実に、疑いようのない明証的な形で把握することは出来ない。ただし、疑いようのある、あまり明証とは言えない形での、実性の把握は可能である。われわれの意識は、ひとつ現実認識の確からしさという表象をめくれば、妄想と幻想、空想と現実が渾然となった、あやふやな実在と非実在の境界をさ迷っているのである。日常的な現実認識にあっては、このような意識の深層は、無論、隠匿されている。注意しておきたいのは、私はそういった空想や幻覚を、現実のものであるとはしていないことだ。確かに存在者とは、存在しうるもの全てであるが、現実世界とは実在の世界である。空想、妄想、幻覚と言ったものは実在では無い。決して私は、空想、妄想、幻想が一種の真実であるとも思わない。

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