アジテーションに殺されない—「上野祝辞」をどう読み解くか(前編)

はじめまして。私、佐藤知佳(@chktne)と申します。

去る2019年4月12日、平成31年度東京大学学部入学式において上野千鶴子さんが「祝辞」を述べてから、早いもので一ヶ月が経ちました。件の「祝辞」に関しては既に多くの方々によって様々な指摘がなされており、話題としてはとうに収束している感もありますが、私なりの考えを書き残したいと思い、筆をとった次第です。

フェミニストが「上野祝辞」を批判したらおかしいですか

さて、このテキストではこれから、「上野祝辞」の批判的読解を示していくことになるのですが、内容に入る前にひとつだけ、言っておきたいことがあります。

いま「こいつ反フェミなんだ」って思った人、ちょっと待った。

いや、わかりますよ。日本フェミニズムの第一人者たる上野千鶴子のスピーチを前にすると、すべてが「女性差別に反対する正しい人たちか、グネグネと言い訳をして女性差別を維持したい間違った人たちか」の二項対立に見えてきてしまいがちです。結果として、スピーチに賛同する人たちが「正しい人たち」で、批判を差し挟む人たちは一様に「間違った人たち」なのだと考えてしまう、そういうことが起きるのはわかりますし、あなたにそう考えさせてしまうことこそが、上野千鶴子の卓越した手腕だったりもします。

ですが、「上野祝辞」「批判」と聞いてすぐ「こいつ反フェミなんだ!」と飛びついてしまった人は、怒らないのでちょっと待ってください。私はこのテキストを、より多くの人たちに新しい視点を提供することを目標に書いていますし、その対象には「祝辞」を手放しで賞賛した人もいれば、「上野は至極当然のことを言っている(だけ)」と感じた人、立論の粗雑さを批判した人、あるいは憤りを感じた人まで、ありとあらゆる立場の人が含まれているつもりです。もちろん、私の言論には私の偏りがあるのですが、それは「フェミ」対「反フェミ」の二項対立で捉えられるようなものではないということは、明確に主張しておきたいところです。

他ならぬ上野さんだって、「祝辞」の中でこう述べています。

これまであなた方は正解のある知を求めてきました。これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。学内に多様性がなぜ必要かと言えば、新しい価値とはシステムとシステムのあいだ、異文化が摩擦するところに生まれるからです。

東京大学「平成31年度東京大学学部入学式 祝辞」
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html

「上野祝辞」を「正解」として受け取ってしまうことそれ自体が、「上野祝辞」にもとるのは何とも皮肉です。この「祝辞」だってそれに対する批判だって、「正解のない問いに満ちた世界」の一部に違いないのです。どんどん摩擦を起こして、新しい価値を生み出していきませんか?

とはいえ、そんなことを言っていてもまず信用してもらえないと思うので、ここはひとつ前書きとして、「女性差別に反対する私」について書いておきたいと思います。「そういうのが読みたいんじゃない」という方は、つぎの見出しまで飛ばしていただいても構いません(笑)。

*   *   *

この社会には女性差別があります。私は女性差別の解消を求めています。

「日本のジェンダー観」は様々な角度から論じることが出来ますが、「男女二元論」のシステムが働いている場に関して言えば、性別に基づく規範意識や抑圧はかなり強いと感じています。「男女二元論」のシステムが働いている場というのは、「男子生徒」「女子生徒」「男性社員」「女性社員」のように、「男女いずれかであること」がその社会における存在性とセットになっているような、そういう社会のことを想定して書いています。制服や服装規定が男女別だったり、業務内容が実質男女別で運用されていたり、あるいは圧倒的多数の人たちが「男性はこう、女性はこう」という規範を当然のものとして考えていたりしたら、その社会には「男性」または「女性」として存在せざるを得ません。「性別とかそれ以前に生徒であり人間です」「性別関係なく社員であり人間です」が成立していないのです。

では、本邦のそんな社会において、女性たちはどんな扱いを受けているでしょうか?

たとえば、勉強ができても女子であるという理由で「女の子が勉強できてもねえ」と嫌味を言われる。たとえば、医科大の入試では女子であるという理由で減点される。たとえば、就職しても女性であるという理由で社内教育を拒否され、「どうせすぐ結婚して辞めるんだろ、無駄じゃないか」と言われる。たとえば、女性であるというだけの理由で優先的に解雇され、「君はよくやっているけど、あの人は妻子持ちだから」などと言われる——。女性であるというただそれだけの理由で、親や教員、上司などの強制力をもった存在によって生き方を制限され、大きく狂わされることがある。私の少ない経験と見聞から結論づけるのもなんですが、欧米、少なくともアメリカと比べて、本邦ではあからさまな性差別が依然としてまかり通っており、かつその問題は一笑に付され、真剣に検討されないままに月日が過ぎている。そういう実感は確かにあります。

かくいう私は幸運にも、さしたる女性差別を受けたことがない——と書こうと思っていたのですが、執筆中に思い出したことがあります。

最初からとある技術系の専門職に絞って就職活動をしていた私は、ほとんど就活らしい就活をしなかったのですが、応募した数少ない会社のうちのひとつで、こんな不思議な出来事がありました。私には私と同じくその会社を受けた男性の知人が何人かいたのですが、その人たちの一次面接の面接官はみなさん、入社した暁には先輩になるであろう技術者の方で、「ちょっと技術的な話題も交えつつ雑談をしただけで難なく通った」と口を揃えていました。が、なぜか私だけ一次面接の面接官は人事、それも説明会のときに場を仕切っていた、なんだか偉い男性の方だったんです。技術的な話は一切通じませんでしたし、相手が人事でも面接らしい面接ではなく単なる雑談で、そういう、何を話したらいいのかよくわからない方とのコミュニケーションが不得手だった(いまも決して得意ではないが)私は、あえなく一次面接でお祈り、という結果になってしまいました。当時は「たまたまかな」と気にも留めなかったのですが、いまとなっては、どこか引っかかる、ような……?

そんな私の話はさておき(面接官が違ったところで、落とされたのは私がコミュ障だったからです……)、本邦において先に述べたような女性差別が今日に至るまで維持されてきたことは確かですし、その淘汰圧は社会の上層に向かうにつれてより顕著になっているように感じます。「上層のごく限られた人たちのことなんてどうでもいいじゃないか」なーんて声も聞こえてきそうですが、まず普通に自立を達成するレベルのところでもまだまだ障壁は少なくないと思いますし、「上層で女性が淘汰されている」というのもそれはそれで、これからそこを目指そうとする女性たちにとってのロールモデルの不在という問題を招いています。

さて、ここまでつらつらと書いてきましたが、女性差別に対する私の視野は、かなり限られていると思っています。たとえば「女性と貧困」を主体として語れるような立場ではとてもありませんし、幸運にも女性社員も男性社員もあってないような半径5mの世界で生きている私にとって、直接目の当たりにする女性差別は、たぶんものすごく少ない。しかし少なくともそのことを自覚しているからこそ、問題意識はちゃんと持とうと努めているつもりだし、見聞きした差別事例に対しては「それはないだろう」と憤りもするし、差別とはどういうものか自分なりに真摯に検討して、「反差別」という考え方にもとることがないよう、ひとつひとつの言動を可能な限り磨いていこうと尽力しているし、日々内省だってしているのです。

どうでしょうか、私が女性差別に対してそれなり以上の問題意識を持っていて、その解消を求めていること、信用していただけそうでしょうか。そう、私は女性差別に反対するフェミニズム運動を支持する立場から——つまりフェミニストとして——「上野祝辞」の批判的読解を示そうとしているのです。どう思われているかは正直わかりませんが、しばしお付き合いいただけたら幸いです。

それでは、「祝辞」の内容に入っていきましょう。

「1.03」をどう読み解くか—挑発と詭弁

「祝辞」においてまず論じられているのが、「選抜試験の公正さ」です。上野さんは昨年発覚した東京医科大不正入試問題に触れた上で、全国の医科大・医学部における女子学生の入りにくさ(女子学生の合格率に対する男子学生の合格率)の調査結果を、具体的な数値とともに紹介しています。

その選抜試験が公正なものであることをあなたたちは疑っておられないと思います。もし不公正であれば、怒りが湧くでしょう。が、しかし、昨年、東京医科大不正入試問題が発覚し、女子学生と浪人生に差別があることが判明しました。文科省が全国81の医科大・医学部の全数調査を実施したところ、女子学生の入りにくさ、すなわち女子学生の合格率に対する男子学生の合格率は平均1.2倍と出ました。問題の東医大は1.29、最高が順天堂大の1.67、上位には昭和大、日本大、慶応大などの私学が並んでいます。1.0よりも低い、すなわち女子学生の方が入りやすい大学には鳥取大、島根大、徳島大、弘前大などの地方国立大医学部が並んでいます。ちなみに東京大学理科3類は1.03、平均よりは低いですが1.0よりは高い、この数字をどう読み解けばよいでしょうか。統計は大事です、それをもとに考察が成り立つのですから。

東京大学「平成31年度東京大学学部入学式 祝辞」
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html

上野さん、いきなり可燃物を仕掛けてきています。

さてこの部分、「入学式の祝辞で不正入試問題を扱うのはいかがなものか」といったような主張もあるにはあったかと思いますが、とくに批判が集中していたのは「1.03」のくだりで間違いないでしょう。この話題を追っていた方であれば、「統計的におかしい」という指摘を一度は目にされたかと思います。

これから私もその「統計的おかしさ」について述べていくのですが、その前にひとつだけ、確認しておきたいことがあります。それは、「『東京大学理科3類は1.03』という『数字』は、この祝辞の大筋からは浮いている」ということです。上野さんは唐突に「ちなみに東京大学理科3類は1.03」と言い出したあと、「この数字をどう読み解けばよいでしょうか」と何やら意味ありげに問いかけています、が、あくまでも問いかけているだけであって、それを根拠に何かを結論づけるということはしていません。ですから、私がこれから「統計的おかしさ」について述べるからといって、そのことをもってただちに「上野祝辞は間違っている」などと結論できるわけではないし、またそうしたいわけでもないということを、あらかじめご了承ください。

それでは、「1.03」を読み解いてみることにしましょう。「統計については理解しているよ」という方は、つぎの区切り線から、そのつぎが出てくるまで飛ばしていただくとスムーズです。

*   *   *

さて、「1.03」を読み解くにあたって必ず押さえておかなければならない重要な概念として、統計的有意性があります。ここでは一旦、入学試験のことは脇に置いておくことにして、統計的有意性という考え方について、ふたつの例を使って説明していきます。

まず、第1の例はこちらです。

 ・ あなたは2枚のコイン、コインAとコインBを持っています。そこに暇を持て余したあなたの友人がやってきて、おもむろにコインAとコインBをそれぞれ100回ずつ投げ、「表が出た回数」をそれぞれ数えることにしました。しばらくして、コインを投げ終わった友人は言いました。「コインAは表が48回、コインBは表が52回出た。Bに対するAの表の出にくさ、つまり表が出た回数の比は1.08で、コインAはそれだけ表が出にくい。」

どうでしょうか? きっと多くの方が「そんなわけないでしょ、偶然じゃないの?」と思ったのではないでしょうか。続いて、第2の例です。

 ・ 暇を持て余したあなたは、スマートフォンのアプリで「ガチャ」を引くことにしました。アプリの開発元によると、「ガチャ」は10%の確率で「当たり」が出るようになっているというのですが、あなたが100回「ガチャ」を引いたところ、なんと「当たり」は1回も出ませんでした。

今度はどうでしょうか? またしても偶然でしょうか? 「それはさすがに、インチキじゃないの?」と思った方も多いのではないでしょうか。

コイン投げにしても「ガチャ」にしても、正確な予測は不可能ということはみなさん了解していただけると思います。具体的に言えば、コイン投げでは50%の確率で表が出るからといって100回投げたら必ず50回表が出るわけではないし、10%の確率で「当たり」が出る「ガチャ」だからといって100回引いたら必ず10回「当たり」が出るわけではありません。

だからといって、「どんな結果が出たとしても偶然だから仕方ないよね」ということになってしまっては、どんなインチキでも正当化されることになってしまいます。そこで、つぎのようなことを考えます。

 ・ 「どちらのコインも50%の確率で表が出る」という仮説が正しかったとして、結果が「48対52」以上に偏る確率はどれくらいあるだろうか?

 ・ 「『ガチャ』は10%の確率で『当たり』が出る」という仮説が正しかったとして、100回引いた結果、「当たり」が1回も出ない確率はどれくらいあるだろうか?

一読しただけでは意味がわからないという方もいらっしゃるかもしれませんが(とくに前者)、話を先に進めるために、実際に計算してみることにしましょう。

まず、コイン投げの例について考えていきます。計算しやすいように揃えておいたのですが、「コインを100回投げて表が48回以下しか出ない確率」と「コインを100回投げて表が52回以上出る確率」は等しくて、0.382177...、つまり38.2%ほどになっています。ですから、「コインAでは表が48回以下しか出ず、コインBでは表が52回以上出る確率」と、逆に「コインAでは表が52回以上出て、コインBでは表が48回以下しか出ない確率」はどちらも、0.382177… × 0.382177… = 0.146059…、だいたい14.6%ということになり、「結果が『48対52』以上に偏る確率」は、あわせて14.6 + 14.6 = 29.2%ということになります。「どちらのコインも50%の確率で表が出る」としても、29.2%の確率で結果は「48対52」以上に偏るのです。29.2%というのは、ちっとも珍しくありません。ですから、「どちらのコインも50%の確率で表が出る」という仮説は否定できず、「コインAはコインBよりも表が出にくい」とは言えないのです。

今度は、「ガチャ」について考えていきます。「10%の確率で『当たり』が出るはずの『ガチャ』を100回引いても『当たり』が出ない確率」は、言い換えれば、「90%の『はずれ』を100回引き続ける確率」ですから、0.9の100乗(0.9を100回かけたもの)になります。0.9の100乗を計算すると0.00002656139、0.0027%もありません。0.0027%というのは、ものすごく珍しいことです。ですから、「『ガチャ』は10%の確率で『当たり』が出る」という仮説は否定され、晴れて「『ガチャ』はインチキだ」と言えるようになりました!

このように、「ある仮説が正しかったとして、実際に得られた結果以上の偏りが発生する確率を計算することで、もとの仮説が正しいかどうか検証する」という手法を、統計的仮説検定といいます。「実際に得られた結果以上の偏りが発生する確率」がそこそこ大きいときは「偶然じゃないの?」と言われてしまうのですが、十分に小さければ「偶然にしてはおかしい、インチキじゃないの?」と言えるようになるわけです。小さければ小さいほど仮説を否定する力は強くなるのですが、その基準としては0.05や0.01、つまり5%や1%を選ぶのが一般的です。そして、もとの仮説が否定されたとき、結果の偏りには「統計的有意性がある」といいます。

*   *   *

さて、長くなりましたが、入学試験に話を戻しましょう。

入学試験に統計的仮説検定を適用したら、どうなるでしょうか? 統計的仮説検定では、「ある仮説が正しかったとして、実際に得られた結果以上の偏りが発生する確率を計算することで、もとの仮説が正しいかどうか検証する」んでしたよね。したがって、ここでは、つぎのようなことを考えます。

 ・ 「受験生全体での合格率をxx%としたとき、男子学生も女子学生もxx%で合格する」という仮説が正しかったとして、実際に得られた結果以上に男女の合格率が偏る確率はどれくらいあるだろうか?

詳しい計算方法については長くなるので省略しますが、Twitterに計算結果をアップされている方がいらっしゃいました。結果にのみ言及させていただくと、「1.03」に統計的有意性はなく、ちっとも珍しくない偏り——先ほどの例で言えばコイン投げ——に過ぎないということのようです。

さて、「1.03」にはあとで戻ってくることにして、いったん、先に進みましょう。上野さんはこう続けています。

女子学生が男子学生より合格しにくいのは、男子受験生の成績の方がよいからでしょうか?全国医学部調査結果を公表した文科省の担当者が、こんなコメントを述べています。「男子優位の学部、学科は他に見当たらず、理工系も文系も女子が優位な場合が多い」。ということは、医学部を除く他学部では、女子の入りにくさは1以下であること、医学部が1を越えていることには、なんらかの説明が要ることを意味します。

事実、各種のデータが、女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高いことを証明しています。まず第1に女子学生は浪人を避けるために余裕を持って受験先を決める傾向があります。第2に東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。今年度に至っては18.1%と前年度を下回りました。統計的には偏差値の正規分布に男女差はありませんから、男子学生以上に優秀な女子学生が東大を受験していることになります。第3に、4年制大学進学率そのものに性別によるギャップがあります。2016年度の学校基本調査によれば4年制大学進学率は男子55.6%、女子48.2%と7ポイントもの差があります。この差は成績の差ではありません。「息子は大学まで、娘は短大まで」でよいと考える親の性差別の結果です。

東京大学「平成31年度東京大学学部入学式 祝辞」
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html

……つかぬことをお聞きしますが、みなさん、この部分、読めましたか? 凡人であるところの私には一読しただけでは意味がわかりませんでしたので、一緒に整理していきましょう。「読めたよ」という方も、ここはひとつお付き合いください。

上野さんはまず「文科省の担当者」の「理工系も文系も女子が優位な場合が多い」なるコメントを紹介したあと、「医学部(だけ)が1を超えていることには、なんらかの説明が要る」と医学部について述べています。しかしその直後には「女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高い」という受験生一般のことらしき曖昧な話題に移り、そうかと思えばそれを裏付ける第2のデータとして「東京大学入学者の女性比率」を挙げています。ここまで一気にまくしたててしまいましたが、私、何も間違ったことは言っていませんよね? よかったら引用部と見比べてみてください。事実その通りのことが書かれているはずです。

さて、ここでみなさんに質問です。これは医学部の話なのでしょうか? 受験生一般の話なのでしょうか? はたまた東京大学の話なのでしょうか? そして列挙されている4つの「データ」は、「女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高いこと」を「証明」しているのでしょうか? っていうかそもそも、「女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高いこと」って具体的にどういう意味ですか? 「女子学生は余裕を持って受験先を決める傾向があるから、大学ごとに見れば女子受験生の方が優位な場合が多い」ということであればかろうじて意味は通りますが、それを「女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高い」と表現するのって適切だと思いますか? 「統計的には偏差値の正規分布に男女差はありませんから〜」のくだりに至っては、もはや支離滅裂すぎて質問すら思い浮かびません。

はっきり言いますね。というかもうおわかりでしょう。これ、詭弁です。一見すると何やら意味のあることを述べているかのように見えてしまうのですが、実はこれ、論理が一切繋がっていないんです。精読すればするだけ骨折り損になるように、最初から設計された文章であると考えるのが妥当でしょう。(上野さんが本気で正しい言論としてこの原稿を書いた可能性もありますが、それはあまりにもあんまりなので考えないことにします……。上野さん、万が一そうなら早いところ引退なさった方がよろしいかと存じます。老婆心から申し上げております。)

*   *   *

ここまでの流れをまとめると、統計学に理解があり、きちんとテキストが精読できる人たちにとって、「1.03」のくだりは統計的にまったく意味をなさないし、その後の展開は支離滅裂としか言いようがない詭弁であり、当然、容赦無く批判されることになります。

が。

テキストを精読しない・できない人たちの見方は、全くもって異なるのです。まず、「統計的有意性」などと言われてもピンと来ないほうが大多数でしょうから、「1.03」のくだりを聞いて「ああ1より大きいんだ、ってことは差別があるってことなんだ」と思ってしまっても何ら不思議はありませんし、とくに女性差別について問題意識の高い人たちにとって、「女子受験生の方が優位」という耳障りのいい言葉に始まり、何やら4つのデータを立て続けに挙げてそれを「証明」し、最後は「『息子は大学まで、娘は短大まで』でよいと考える親の性差別の結果」というもっともらしい文言で締める一連の流れは、「本当は女子の方が優秀で、それなのに性差別のせいで苦しめられているんだ!」というように、あらかじめ抱えている問題意識と甘美に溶け合って自分を都合のいいストーリーに導いてくれる、実に「腑に落ちやすい」ものなのです。いまは文章として読んでいますが、スピーチとして聴いていたら尚更そうでしょう。

さて、そういう人たちは、きちんとテキストを精読して批判している人たちを見てどう思うでしょうか? テキストが精読できない人たちにとって、テキストのどの部分がどのような理路で批判されているかを読解することは、残念ながら難しい。そこで何が起きるかというと、「批判者たちは『実は女子の方が優秀で、それなのに性差別のせいで苦しめられている』というストーリーに対して反発しているんだ!」と早合点してしまうのです。とくに日本フェミニズムの第一人者たる上野千鶴子を前にすると、すべてが「女性差別に反対する正しい人たちか、グネグネと言い訳をして女性差別を維持したい間違った人たちか」の二項対立に見えてきてしまいがちです。その結果、スピーチに賛同する人たちこそが「正しい人たち」で、批判を差し挟む人たちは「間違った人たち」なのだと考えてしまうのです。

これはあくまで私の予想ですが、上野さんはここまでに私が述べたことを恐らく、すべて想定した上でスピーチに臨んだと考えられます。テキストが精読できる人の多くが思いつくような批判が集まる様子を、テキストが精読できない人たちが「趣旨のわからない頭でっかちな人たち=グネグネと言い訳をして女性差別を維持したい間違った人たちが必死こいて反発しているんだ!」と陳腐化する。両者が対立する構図が煽られるよう、周到に用意された導入部だった、というのが私の見立てです。

少し話が脱線しますが、スピーチにおける詭弁にちなんで、ウィル・スティーヴンさんという方が2014年のTEDxNewYorkで披露した、「頭良さそうにTED風プレゼンをする方法」というプレゼンが大変面白いので是非ご覧になってみてください(英語のスピーチで字幕がついていますが、英語がわからなくても音声アリで聴いてみてください! 絶対に伝わってくる「雰囲気」があるはずです)。数字をただ羅列しているだけなのに頭良さそうに聞こえる、なーんて場面も出てきますよ。「祝辞」との類似性を探ってみるのも面白いかもしれませんね!

(つづく)

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