「あの頃のあなたが、私がいたから、今のあなたが私がいるとよね〜」


子供が小さかった時の写真が目に入った時に感じ、出て来た言葉です。

実はこの言葉の周辺に、別の言葉が漂っています。
それは…

「もうあの頃のあなたはいない…」

この寂しさに打ちのめされた感情。
これは亡霊のように不確かなものだけれど、負の感情は強い。

ついでに言うと「〜ない」という否定も出やすい。そして強い。

これらが生活や人生のあちこちで積み重なって埃のように心を薄汚れた感じにして苛まれるような気がする。

過去の絶対的な存在感に圧倒されることが、私はなかなか多いです。
それで、今現在という、大きな力が働いている時を見過ごしてしまう事が自然と多くなる。

子供が産まれてしばらくは、「今の〇〇ちゃんが一番可愛い」とよく感じたものでした。

その時々に、目の前にいる我が子が最高に可愛いと感じる。
それは写真や映像に写し取ろうとしてもどうしても現れない、生の美しさで本当に尊いものでした。

新生児から数年間は、その鮮烈な喜びに震えて夢中で、目の前の一瞬、一刻に生きていました。
それほど小さな子供の欲するもの、生きる意欲は凄かった。私はそれに応えようとして文字通り必死だったのだと思います。
私は心をすっかり奪われました。

これは、今という時に生きる経験としては、最高の時間でした。
それは、子供という他者によって引き起こされたことでした。

やがて子供が社会性を求め出したタイミングで入園し、そこで少し距離感の中に空気が入ったのでした。
そこから私自身の人生を構築するための力が、私に働き始めました。
そんなことが今になり理解されるようになりました。
その点では、子供は親を無条件に愛し、応援する姿勢で生まれてくるという考えに、同意しているのです。

それで、今。
子供は私の手元から離れました。
情け容赦なく意思を貫いているようにも見えます。

子供の温もりや声、目の前に起きている変化、日常などから離れることで、寂しさにも打ちひしがれることもありました。

過去にあった圧倒的な存在が、今は「ない」。

では、現在は圧倒的ともいえる存在はないのか?

…答えは「ある」。

何があるのか?
私自身の人生、目の前の生活です。

そこには、これまで向き合うことが出来なかったことが目を輝かせている可愛い子供のようにして、じっと待っているようでもあります。

生まれたばかりの子供は可愛い。同時に恐ろしい。
私自身の人生も、同様に愛するものであり、畏怖するものであります。

かくて…冒頭の言葉に至りました。
「今のあなたが私が、いる」




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