私自身

世の中器用でスマートな人が多過ぎる~高倉健3も真っ青な不器用な自分~

今回もあまりまとまりのない文です。

色々SNSや動画サイト見ると経歴、それらにおける何かの表現のクオリティ、本当に凄い人が多くて驚きます。
ここnoteでも、プロフィールなんか見ると凄い人達が目立ちますよね。
自称「平凡」「普通」と謳った優秀な方が多いような・・・。

多くの人が感じることかもしれませんが、
何でそんなに器用でスペックも恵まれているんだよ!?とか
何でそんなにフォロワーが多いんだ

もっとみる

「あの日から。32」

2015年12月16日になった。いよいよ明日は実家に早めに帰省して、母と妹を連れて大病院に行き、母のオペ前提での大きな検査が20個近くあった。

時間にしたら丸々一日かかるはずだ。病院中を歩き検査から検査に順番に回って行き最後に担当のDrとの話し合いになる。多分、この日はオペの話は決まらないのではないか?と思っていた私であった。

朝の時間が過ぎ、我が家は我が家で、夫は鎌倉の事務所に。娘は仕事場に

もっとみる

怠け者である私のモチベーションの上げ方

現段階において、しなくてはならないことが目の前にない、という人はなかなかいないのではないだろうか。

ちなみに、私の場合はやらなくてはならないことがあるにも関わらず、中身の伴わない焦りのみが私を侵食し、そしてやる気までを削いでいく。

こんな言い訳を並べるわたしは相当な怠け者である自信がある。
だらだらと日々だけを消化している今。
本当に私は一体なにをしているのかと嫌気がさす。
マイナス思考の渦、

もっとみる

自分自身の誕生と死を目撃するのは自分自身ではなく、他者である。 『不十分な世界の私―哲学断章―』〔32〕

人は、例外なく「人々の中」に生まれる。つまり人は「人々の、その関係の只中に生まれてくる者」なのだ。
 そこで、人の生涯とは、人々との関係の只中あるいはその『間』において生きられるものであり、また、その死は、人々と関係する只中において訪れることになるものである。それを、誰も避けることはできないし、免れることもできない。
 人の「生と死」は、人々の関係の真っ只中にあらわれる。それが人々の関係の只中ある

もっとみる

実現しうる可能性の中に先取りされた未来。 『不十分な世界の私―哲学断章―』〔26〕

『私』が現実において実現しうる可能性として、私自身にすでに見出されているところのものである、「未来において何か意味があり価値のある何者かになる」という、私自身の可能性。その一点に賭けて現在を生きている私にとって、「私であることの価値=意味」は、未来において見出されるところの「何者かになった私」にしかない。それは、私において見出されるばかりでなく、誰においても見出しうるところの「何者か」であるからこ

もっとみる

人が欲望する対象は、誰でもが欲望できる対象である。 『不十分な世界の私―哲学断章―』〔23〕

人は、誰もが持ちうる欲望、他人の欲望でもありうる欲望を、「自分自身の欲望として」欲望する。それが他人にとっての欲望の対象でもありうるから、それは誰においても欲望の対象でありうるのであり、つまりそれは「自分自身においても欲望の対象である」ことができるものとして、その対象に対する欲望が、他者に、そしてまた一般的に、「欲望として承認されうる欲望」となる。
 『欲望』とは、まず「欲望というもの」があって、

もっとみる

人は、自分自身のアイデンティティより他人のアイデンティティに関心を持つ。 『不十分な世界の私―哲学断章―』〔21〕

アイデンティティとは、人の社会的関係の、それぞれの側面において、その人の立場を説明するものとして、言い換えると、その人を「意味するもの」として表れるものであると言える。それはまた、その人の社会的な関係の、それぞれの側面によって、「それぞれ違う意味として表れるもの」なのだとも言っていい。
 『私』は、たとえば会社にいるときは「スズキ課長としてのアイデンティティ」を持っており、それに応じて『私』は、そ

もっとみる

アイデンティティは、その人の立場の承認であり、その立場にあるその人自身の承認となる。 『不十分な世界の私―哲学断章―』〔20〕

人が「社会的に行為する」ということは、「他の人と社会的に関係する」ということである。言い換えると、社会的に関係する対象への、つまり「他の人」への働きかけが、人が社会的に関係する=行為することそのものなのだ、ということになる。
 そして、『アイデンティティ』とは、社会的に関係する対象、つまり「他の人」に対して、人がそのように関係するところの自分の「立場」を説明するものとして機能するのだ、と言える。そ

もっとみる

私を他人がどう評価しているのかを知るには、私を他人として評価することで可能となる。 『不十分な世界の私―哲学断章―』〔19〕

「他の人たちが私のことをどのように見ているか?」を気にかけるというのは、その他の人たちの間=世間において「私がどれだけ価値のある者として受け入れられているのか?」を気にかけているということでもある。そのような世間の『価値』に基づいて、「私が、他の人たちにとって価値のある者として承認されている」ということが証拠づけられば、それが「私の幸福」であると感じられるし、その幸福が「私にとって価値のあるもの」

もっとみる