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学年で揃えましょう


 授業進度、授業の進め方、掲示板、子供への指導、宿題の出し方。
 学校現場では、多くのことで「学年で揃える」ことが良しとされています。
 先日あった冬休みの課題についての話し合いでは、「百人一首」「筋トレ」など、その先生と子供たちの関係性から成り立つ課題を出そうとする学級があったのですが、結果的には「学年(学校)で揃えましょう」ということになりました。「揃える」ということが絶対的に良いことだとされている節があります。
 もちろん、自分でどのように進めていけばいいか分からない初任者や若手にとって、ベテラン先生のやり方に合わせてやっていくというのは、指針にもなり、教育法を学ぶ上でも一定の効果があります。守破離の「守」ですね。

 しかし、そういう状況ではないにも関わらず、何でもかんでも「揃える」場面をよく見かけます。なぜ、そのような考えになるのか。それは、「保護者からのクレーム」を気にしているからに他ならないのではないかと思います。「なぜ隣のクラスは〇〇しているのに、うちのクラスではしてくれないのですか」などのクレームを気にしていて、その盾として「学年で揃えて行っている」というために、「揃える」ことを良しとしてしまうのです。

 平等性を保つために「揃える」ということも、揃えることの理由として一理あるように思えますが、本当の意味で教育を揃えることは不可能です。手法は揃えることはできても、成果を揃えることはできません。
 例えば、授業場面。力量の高い先生は研鑽と経験で培ってきたものがあるので、どのような意図で発問を配列するか、どのタイミングで交流をさせるか、どのタイミングでA子ちゃんに発言させるかなど、言語化が難しい部分も意識的に行っています。一方、授業が苦手な先生は、当然そこまで意識化できません。自ずと授業成果は全く異なるものになります。

 「学年で揃える」の最も大きな問題点は「思考停止に陥ること」です。本当に授業のやり方がわからないという場合、まずは型から学んでいく、というのもいいかもしれませんが、ベテランも中堅も若手も初任者も、みんなひっくるめて「揃える」となると、教師は自分で考えなくなってしまいます。思うに、時代を感じ取り、斬新な実践ができるのは「若いうち」です。(※戦職メンバー等、例外は多々あり。)枠に合わせて固定化されてきていない分、発想が自由です。自分の特性をいかした実践を試行錯誤した結果、子供がいきいきと輝きだした時、そこに教師の仕事の本当の楽しさを感じることができます。

 チーム〇〇という言葉が聞かれるようになりました。一致団結して教育課題にあたっていこう、学校をより良くしていこうという素敵な言葉だと思います。が、危険な言葉でもあると感じています。
 組織として「何を揃え、何を揃えない」のかを明確にすること。揃えた方がいいものや揃えざるを得ないものについては、「なぜその型なのか」を問い続けること。ちょっと一工夫を付け加えてみること。

 この辺りに気をつけていきたいなあと思いました。(著 土井正博 教師のNG思考より)

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