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「野生」に込めた思い~父のはなし(1)~

「野生」を名乗っている理由

私が今、
野生を名乗っている理由のひとつに
「父に対してのリスペクト」がある。

父のことを
こんな風に思う日が来るなんて
10代くらいまでの私には
到底考えられないことであった。


それまでの私は
「とんでもない父に育てられた。」と
思っていたのである。(←言い方)

小さい頃から私は、
父のことを
自由人(すぎる)し、
野生児のようだ…と
ずっと思っていた。

いわゆる昔ながらの九州男児。
亭主関白で
なんなら暴力的。(←大問題)

いわゆる、ちゃぶ台ひっくり返す系



奥さんの方が強い家庭もあるとは
噂には聞いていたが、
そのイメージもつかないくらいに

うちにはそのシステムや
空気感は、一切なかった。


人の言うことは聞かず(←イメージ)、
常識に捉われなさすぎる破天荒さ。
社会のルールは一旦無視(←イメージ)で
「普通」が通用しない。(←イメージ)

楽しいことを全力で楽しみ、
好きなところへはどんどん突き進む。


雨が降ったら仕事を休み
(今思えば、
外での作業だったので当然か)
嫌と思ったことはやらないし、
なんなら口に出して文句を言う。
本人に向かって悪態をついたり
平気でサボったりする。

思いや理由をきちんと述べて
手順を踏んでそれらを行えば、

「自分の価値観に忠実で、
それを表現して生きている人」と
なるのだが、

幼い私には少なくとも
その手順は
一切見えてこなかった。

好きか嫌いか。
やりたいかやりたくないか。
子どもが泣こうが、
妻が泣こうがお構いなし。


ものすごい
自分基準で動いていたのは確か。



そしてその父の
「好き」や「やりたい」が
極めて
【野性的・感覚的分野】に
特化していたのである。

父の人づきあい

まず今日は
父の人間関係についてのことを
書こうと思う。

父は亡くなっているので
今となっては詳細を
本人に確認することはできない。


ゆえに完全に幼きハンナの
イメージによる見解である。
天国で父が「不本意!」と
怒っているかもしれない。

でも仕方ない。
詳細、聞いてないのだから。

写真はイメージ。(約356%増程度の父と弟)


少なくとも父は私の中では
ものすごい社交的な明るい
タイプではなかった。

父は家で
自由奔放に動き回っていたので
外の社会だからといって
自制が利くとは思えなかった。


社交的な人って、
相手に対して
細やかな気遣いをしたり、
空気を読んで
みんなが快適に過ごせるように
場を回したりするはず。

父にその感じは
一切感じられなかった。
自ら率先して大勢をまとめるような
リーダーシップは無さそう。


だけど、どうやら観察していると
比較的少人数の
小さめのコミュニティでは
陽気に愉快に過ごすことは
得意そうに見えた。


友人といつも笑って
おしゃべりしていたし、
冗談ばかり言って
みんなを笑わせていたし、
周りも人たちも楽しそうにしていた。

よかった。
最低限の社交性はありそう。←


小さかった私が
なぜかそう安堵した記憶がある。

真面目な話に持っていけない父


ちなみに家庭内では
真面目な話をしたくても
全て冗談で返ってくるので、

私には
ある程度の大人になった時点で
早々に
「父に真面目な相談をする」と
いう選択肢が消えていた。

そこに私は不満を感じていた。


「普通」なら子供が相談したら
真面目に答えるはず。

「普通」なら子供に
「勉強しなさい」
「お友だちと仲良くしなさい」と
言うはず。


私はそう思う子供だったが、
父にそのような主旨のことを
言われたことがなかった。

だから
勉強を見てもらったこともないし
友人関係に
口出しをされたこともない。
将来の夢を聞かれたこともない。

中学生で
「将来は看護師になりたい」と
思った時、母には語ったけれど
父にきちんと話した記憶はない。
「ふーん」くらいだったと思う。

かと言って、父は私たちに
無関心だったというわけではない。

口うるさく
勉強や友人関係のことを
言わない代わりに、
遊ぶことには真剣だった。


特別な休暇の
レジャーはもちろんだけど

毎日仕事から帰ってきて
寝るまでの夜の時間は
一緒にテレビを観ながら
ああだこうだ言ったり、

遊んだりして過ごす
なんだか知らないけど
楽しい時間というものがあった。
「団らん」というやつだ。


父はいつもテレビで
野球中継か
NHKのニュースを観ていた。
それと映画が好きで
昔よくやっていた週に何回かの
映画番組や、
ドリフは必ず観ていた。

それに伴って
映画の解説があったり
志村けんごっこをしたり
父はふざけながら
エンターテインメントを活用して
色々な教えを
私たち姉弟に
伝授していたように思う。

当時、それはとても楽しかったが
チャンネル争いという争いの
ジャンルがあるということを
知らないほどにテレビの
チャンネル権は父にあった。

母も子供たちも
観たい番組は自由に
観られないシステムだったが、

家族全員で結局は楽しく観て、
楽しく過ごしていたので
それはそれで
成り立っていたのだなとも思う。

しつこいようだが写真はイメージ。いつもふざけるばかりの父と娘ハンナ。




そんな感じで日常のだいたいが
テレビを観ながらふざけたり
お酒を飲んで笑っていた父なので、

家族で真面目な語らいを
したことがない。

中学生くらいになって知った
「家族会議」というキーワードに
謎の憧れを抱いた記憶がある。

家族でも…会議って…
するんだぁ………と。

ちなみに、
父と真面目な話をすることに
何回か
チャレンジしたことがあるが、

全て華麗に
肩透かしを喰らうという
『暖簾に腕押し、
糠に釘なファザー』であることが
確認されただけで終わった。

無念だった。

家の外の父

そんなワケで私は
父は
「真面目な話ができない人種」
だと思っていた。

家の外の
社会的な父はどうだったのか
よくわからない。


けれど、
時々母から聞かせてもらう
昔の父の話は、
そこそこ毎回
パンチが強めなものが多く、
私は父のことを
「変わり者」として
認識せざるを得なかった。



そもそも父と母は
福岡と岩手という故郷から
東京にそれぞれ出てきて
出逢っているのだが、
父が東京に出てきた時の
エピソードが不可解。


父とは結局、最後の数か月以外
真面目な話をほぼしなかったので
真相を聞き忘れたままである。
亡くなったので不可解エピの
真意はわからない。

父は大阪で就職するために
福岡から乗った新幹線を、
そのまま大阪で下車せずに
東京まで乗って来た。なんそれ。

誰もが知る大手企業に就職が決まり
家族に見送られ福岡を発った。

それなのに祖母はその会社から
「息子さんが出社しない」
という連絡を
後日受けることになり、
そこで初めて
父の東京行きが発覚した。
もちろん
東京での就職は決まっていない。

当時の祖母をはじめ、
家族が心配する様子を
想像しただけで辛い。
辛すぎる。

父よ…。迷惑だから、せめて
一報だけでも入れようか…。


365日いつも
家族の前ではふざけているか、
黙っているか、
キレているかのいずれか
(ホントにどうなのそれ笑)
だったのと、


こんなテイストの
エピソードばかりを
小さな頃から母に聞かされ

挙句そのことによる母のグチも
延々と聞かされていれば、
当然私が父のことを

「まともじゃない
普通ではない父」と
思うのは無理もない。(←正当化)

というワケで、
「私の父はとんでもない人」
という
印象で育ったのである。

普通の家に生まれたかった


破天荒な
野生児の父のエピソードは
こんなものでは終わらないのだが、
今日は「人づきあい編」。

【野性感】という視点では
今日はあんまりなのだけれど、
そこに絞って話したい。


そんな父と
それに対して
ずっとグチを言っている
(でも父本人には言えない)
母との生活が日常だった私は

心の底から
「普通の家に生まれたかった。」と
思っていた。

今思うと普通って何?としか
思わないけれど、

当時の井上家には
パンチの効いた
エピソードや環境が
盛りだくさんだった。

なので、幼かった私でも
【どうやら、これは普通ではなさそう】
と感じ取れていたのである。


当時の私にとっての「普通」とは
▶お父さんがサラリーマン
▶スーツで出社し土日が休日
▶家が仏教
▶少なくともクリスチャンではない
ことが基準だった。

自営業で大工をしていた
クリスチャンの父なので
▶休みは不定期(自由)
▶スーツより作業着(泥だらけ)
▶日曜日は絶対に教会へ
が日常。

私の夢の「普通」は
この日常からの
ないものねだりであり、
「普通じゃない父=父と反対の人が普通」
という単純な
子供的発想だったと
今は思う。

この環境のせいで
私は、普通じゃない生活を
強いられているんだ…と
思っていた私。

毎日楽しいし
自分を不幸とは
思ってなかったけれど、
なぜだかこの点に関してだけは
「絶対にうちは普通ではない」と
思い込んでいたのである。

社会で真面目な父を見た話

そんな
「不真面目な普通ではない父」と
斜めに見ざるを得なかった
娘ハンナが

父の「真面目で立派な」場面を
一度だけ見る機会があった。

それは父の友人が亡くなった時。

告別式に一緒に参列したのだが、
そこでなんと父が
「友人代表」として
弔辞を述べたのである。

当時たしか私は
小学校高学年くらいだったか。

極めて真面目な場所。
大勢の人たちの前で
父が喪服をきっちりと着て
堂々とした態度で
立派に
難しい言葉を話している。


しかも、
気持ちがこもっていて
心に響き、
まさかの父も少し泣いている。
(キレてる父は見たことあっても
泣いている父を
見たことはなかった。)


それでいて聞き取りやすい
しっかりとした口調。

【完璧やん…】

当時はそこまでしっかりと
考察したわけではないけれど、
とにかく365日、
10年以上見てきた
不真面目でお調子者の父が
「やればできすぎる」ところを
見たのだ。


今でもその光景を
思い出せるくらいに貴重(笑)

なんだかすごく
誇らしかったのを
覚えている。

「お父さんて…
こういう立派な話を人前で
できる人だったんだ…。」と
びっくりした。びっくりしすぎて
母親にもそれを言った記憶がある。

そういえば
母はいつも父を
「究極の照れ屋」とも言っていた。

照れ屋すぎてうまく
言葉や態度で表すことができない
不器用なタイプ。

ゆえに心を許せる、
油断できる家族の前では
素の自分でいつつも、
真面目な部分や感謝などは
気恥ずかしくて
出せなかったのではないか。

そう思うと、
大人になった今なら
共感や理解ができる部分も
多々ある。

掘り起こせば
父は絶対におもしろいし、
真面目だし、
破天荒ゆえに
独創的な考えを
持っていそうだしで

今、私自身がそういったものを
究極に楽しめるマインドになった
状態であるから、

だいぶ父に話を
突っ込んで聞いてみたいと
思うことがよくある。


父が亡くなって5年になる。
5年前の私はまだ
【自分が自分のままで良い】
ということに
気づけていなかった。

それゆえに
様々なフィルターを何重にも掛けて
人や社会を見ていた。

当然、
父に対してもそうであったので
今ならめちゃくちゃ
ぶっこんで話を聞くのになぁ~と
思うことがある。

これは後悔という
マイナスな意味合いで残っている
気持ちではないのが
私にとっての救いであり、
誇りでもある。

この話はまたいつか
別の機会にしようと思う。

ただ単純に
父って絶対
おもしろキャラだったんだろうな~
という
謎の確信があるのである。


小さくて見えていなかった
世界から飛び出して
大きく視野を持ちたいと
思った私。

父に対して抱いた
【小さな世界の中だけで
フィルター掛けて見ていた
印象への反省】と、

それでも滲み出てくる父の
【おもしろさを嗅ぎつける
私の高め意識とセンス】を、

この私自身の働き方、生き方、
在り方の中でも野性的に
発動させていきたい。

父の野生児マインドを携えて
私もたくましく生きて、
社会に影響を与えていきたい。

そう思って
父の生き方の一部であり
中心にあった
「野生」という言葉を
いただいたのである。

父ちゃん、見ててね。




父のこの野生エピソード。
1回で書こうと思ったら
やっぱり無理だった。

予定では父の野生話は
今回のこの
「人づきあい編」以外に
▶仕事編
▶子育て編
▶趣味編
に渡ってしまうし、

野性の意味は
父以外の
意味合いもある。

ゆえにしばらくみんなには
知らない人の
知らない父親の話を
読んでいただくことになりそうだ。
すまない。

本日のワーク

▶あなたの「生きる」に
影響を与えている人は
どんな人ですか?


思い浮かんだら
その人のどんな要素に惹かれて、
どんな部分を今の自分に
取り入れられているか
考えてみよう。

浮かんだ感情や思いを
その人に伝えてみよう。

ちなみに私は亡くなった父と
亡き愛うさぎの
らびっとさんには
毎日普通に話しかけている。




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