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言葉を呪いと思いたくない

最近の気づき。
私は昔から言葉を真に受けすぎるところがある。
もっと具体的に言うと、誰かに何かを言われると必ずその通りにしなくてはいけないと思いすぎているところがある。

たとえば友人と飲食店に出向いた時、メニュー表を見た友人が「以前この店にきた時、この料理が美味しかったよ」と教えてくれたとする。そうすると私はその料理しか選べなくなってしまうのだ。

それはなぜか。
「その通りに行動する」ことでおすすめしてくれた相手の好意にきちんと応えられていると思っているからだ。
そして万が一友人に薦められた料理を選ばず自分が食べたいものを選んだ場合は、相手を傷つけたのではないかという罪悪感に苛まれることになる。なので、自分で選んだ料理はもう美味しいと感じられないことが目に見えている。

逆の立場であれば、自分の薦めたメニューを友人が選ばなかったとしてもそれほど傷つかないと思う。だけど私にはそれが出来ない。

ここまで読んでくれた人は私のことをどう思うだろうか。
「世の中にはこんな人がいるの?」と驚かれるだろうか。
それとも「共感できる!」と思ってくれる人もいるだろうか。
私にはこの性格が普遍的なのか異質なのか、分からない。

思えば私はこれまでの人生で大切なことを、あまり自分の意志で決めていないかもしれないのだった。
志望校や就職先は本当に自分の中で納得して決めていただろうか。
両親が嫌がる選択をしないことを最善としていたのではないだろうか。

もちろん自分の中の希望というものはあり、それはきちんと伝えていたはず。
だけどもし、自分の希望に対して反する意見を言われてしまったらおとなしくそれに従っていたのではないか。
両親の悲しむ顔をとにかく見たくなかった。そして、他人の判断に身を委ねれば責任感が薄くなりとても楽だったのではないか。

私が地元ではない場所に就職したのも、父親のある一言がずっと胸に残っていたからだ。
「地元を出ないで一生を過ごす人は甘い。世間を知らない」
だから私は地元に就職したら親に悪い印象を持たれてしまうと思った。
それがとても怖くて嫌だった。
ほかにも理由があったけど県外に就職することの後押しになったことは間違いない。

そしていざ就職先では上手くいかない日々が続き、「地元に帰りたい」と何度も頭を過ったがこの言葉が呪いのように体をがちがちに固めてしまい、結局行動に移さない形で解決させていった。

年々、「自分で判断をする」という行為が自分の中で非常に億劫になっていると感じる。
社会人になってから失敗するのが極端に怖くなったというのも原因のひとつだとは思う。

でもこのままでは駄目だ。
言葉を呪いのように感じてしまう。
日頃から言葉が好きなのに、大好きな人達からもらった言葉なのに、自分を窮屈にさせてしまうものに捉えてしまっている。

言葉を真に受けないための良い回避方法はまだ見つかっていない。
この極端な思考になった経緯を深掘りして最適な解決策を見出したいところだけれど、もう少し時間がかかりそうだ。

とりあえず、自分が言葉を真に受け過ぎていると気づけたのでそれを意識するようになった。
そうして分かってきたことがある。

誰かの言う通りにしなかった場合、今のところ相手への罪悪感で心がざわざわするのは続いてしまうこと。いつか慣れるのかもしれないし、一生慣れないのかもしれない。

自分の意思で決めて失敗した場合、しっかり後悔するようになったこと。次は失敗しないためにどうすべきか、きちんと向き合い考えるようになった。もっと下調べをするだとか、専門知識のある人に頼ってアドバイスをもらうだとか。

そして1番大きな気づきは、自分の意思表示をして他人に許してもらえればもっとその人に心が開けられるようになることも分かった。むしろ、その人の意見にずっと即していたら、いつまでも本心を見せるタイミングを失っているかもしれないとさえ思った。

とはいえ、自分の中でさくさくと決められることもある。たとえば本屋さんに行って購入する本を選ぶ時。
もちろん悩みはするけれど、基本的に後悔はしない。多分、自己完結できる悩みであり、後悔したところで誰にも影響がないからだ。
自分で意思決定できる悩みとそうでないものの線引きがどこにあるのかはもっと今後深掘りしていきたいと思う。

そして当たり前だけど、私のことを思って意見してくれる人のことを今以上に大切に思えるよう、その有り難さを忘れないよう、これからも自分を育てていきたいと思った。

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