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褒められるのが嫌いなワケ

昔から褒められることが嫌いだ。

褒められることが苦手な人は自己肯定感が低いと言われる。私は自虐もよく口にするので、なおさら自己評価が低い人と思われそうだ。でも、皆が皆そうではないと思う。
私が褒め言葉を素直に受け取らない理由と真面目な話の後で自虐を挟む理由、そしてふざけてばかりでしょうもない自分を演じる理由は同じだ。
「目をつけられないようにするため」だ。

人前で褒められるとそれを妬む人がいる。褒める人の中には自分が褒められたくて褒めている人がいる。自分の主義主張を明らかにすることは、生意気だと思われることがある。集団のなかで目立つことをすると、嫌な感情を向けられることがある。
雑にまとめると、そこから同調圧力を感じてしまうのだ。

自己表現は他者を不快にさせるリスクがあるため、おいそれとすることはできない。一方で表現を抑えることはとても苦しいうえに、それはそれで他者との関係を築けなくなる。結果、表出の仕方は他者を不快にさせないように十分に気をつかうことになる。

それが、私がこれまでの人生で学んできたことだったのだと思う。しかし、リスクを避けるための処世術のはずが、これを繰り返すことで実は自分がものすごく疲弊しているということに気がついた。
私が人付き合いが苦手なのは、このせいだ。自分で自分に必要のない否定的な言葉をかけることで、どんどん気分が悪くなっていく。その場は笑っているけれど、積もり積もっていつの間にか何となく暗い気持ちになる。だから一人でいたくなる。一人でいれば不用意に自分を下げる必要はない。というのも、褒め言葉の拒否や自虐、おふざけは自動化されているので、意図して言っているわけではないからだ。完全に身体に染み付いている。

これまではいわゆる同調圧力が自分の息苦しさの原因であると思っていたが、それでは不十分だった。私の苦しさは自分で編み出した処世術によって生み出されている。そしてここからの脱却を図るには、自分の認知を変えるか、この処世術が要らない環境に身を置くことだ。

こんな私にも気が置けない人というのは数人いて、なぜそう感じられるかというと、この処世術が要らないからだ。しかし、仕事のように、そうではない人たちとそれなりの密度で継続的な関係を続けなければならない状況では、この処世術は手放しにくい。実際、処世術が作られる元となった同調圧力は少なからず存在すると思うので、それを気にしないわけにはいかない。なぜなら、根底には他者に不快な思いをさせたことで、自分がその集団で相手にされなくなることの怖さがあるからだ。何かを表明したところで、その集団から相手にされないようでは意味がない。

私がやたらと外国に行きたがるのは、そこが処世術の要らない環境なのではないかと感じているためだ。「出る杭は打たれる」は日本の文化だと直感的に感じていて、外国(もちろん国によるが)に行けば意見を言わないことの方がよく思われなかったり、自分の意見を明確に表明することは当然とみなされたりする。そのような文化の方が居心地がいいのではないか。そしたら自虐なんていう必要はない。褒めるのが当たり前の文化なら受け取っても妬まれない。
外国に行けばリラックスして他者と関われるのではないか、そんな可能性を学生の頃からずっと感じていたのだな。

やや話はズレるものの、外国つながりで最後に思い出したことを書いておく。
以前、NYに旅行で行ったときのことだ。お店の人は日本の店員のような親切さはなかったけれど、私が下手な英語で一生懸命に何かを伝えようとしているのを、最後までしっかり聞いてくれていた。日本だったら言い終わる前に気を利かせて色々言ってくるところだが、NYの人たちは違った。どの人も私の辿々しい英語を遮らずに聞いてくれ、それから応えてくれた。このとき、すごく自分のことを尊重してもらえていると感じた。日本では感じたことのない感覚で、すごく嬉しかったのを覚えている。

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