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それでもやっぱり人の目が気になる

「人の目が気になる」というのは、自意識が過剰だということ。
自意識が過剰ということは、いつも、他者の視線の先に自分がいる状態。自分から他者を見る、という感覚がなくなっていくということです。

と、書いた私にも、
いつもいつも、期待に応えなくちゃと思っていた時期がありました。
私は、結局2度も壊れてしまったのですが、それでも未だに、人の目や人の言葉が気になってしまうことが、まだたくさんあります。
はい。自意識過剰野郎です。
この年に来てもなお、「どう思われるかしら?」と考える度に、「ったくもう!」と苦笑いの領域に達してはじめて、ようやく「あっ、また始まった」と客観的な気づきが生まれるようになりました。

もう、年齢も年齢だから、好きに生きていこうとは思っているのですが、いまだ炎上とか怖いし(炎上なんてしようもないんですが、なったらという妄想だけは働くから困ったもので(笑))、「いいたいやつには言わせとけ」みたいな強さも、まだまだ磐石ではありません。
でも、20代まではその強さがありました。
では、どうしてそれが崩れたのかというと、「人の期待に応えたい」という思いが小さい頃にもあった「癖」だったことと、その癖を意識出来ていないのに、プロダクションを経営して「みんなの期待に応えなくては!」という強い意識が芽生えてしまったのが始まりです。

noteの一番最初に書いた記事、「夏目くんのことば」は、まさにそんな気づきから生まれたものです。
「誰かへのことば」は「自分に伝えたいことば」でもあります。

先日、同じような癖を持ち、仕事を優先させ、2度の離婚をし、家族を巻き込み壊しながら生きてきた母と、話をしていて気づきました。

「期待に応えたい」という奥底にある本当の思いは、
「いつも誰かに、自分を求めて欲しい」
「誰かに認めて欲しい」
という欲求だったと気づいたんです。
そしてそれは、逆から見れば、あんなに強気を外に見せていた母は、まったく自分に自信がなかったのだと思いました。
どんなに仕事が上手く行っていても、どんなに周りから注目を集めても、自分で自分を認めてあげない限り、人は外へ承認を求めます。
嫉妬や悪口もまた、自分に自信がないからこその振る舞いです。

「いつも誰かの特別であること」が自分の立ち位置を守る方法ではありません。

「誰かの期待に応えなくとも、あなたは、あなたのままで大丈夫」
「誰かの特別にならなくとも、わたしは、わたしで、大丈夫」


なんです。
今日は「勝さんのことば」をしめに。
行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない

人の目ではなく、
自分の目に映る自分が恥ずかしくないようにすること。
これが、一番大事なことだね。

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