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他人の視点からはなれること

時折思い出すことがある。
演劇の師匠であり演出家だった人の言葉だ。
当時、私はいつも「他人に映る自分」を意識していた。
人の目にどう映るか、人に喜ばれるためにはどうしたらいいのか。
そんなことばかりを考えていた時期だった。

演劇の稽古中の出来事だった。
私はきっと、演出家にほめられようにとしていたのだと思う。
それが彼女の目に、私の生き方が見えた瞬間だったのではないかと思う。演出家というのは、人と人の間に交わされる言葉や感情や心理状態などを瞬時に読み解いてしまう力があるのだ。

そしてその時に言われたのが

「それは、自分がしたくてやっているのか」
「それとも、誰かにほめて欲しくてやっているのか」
「それとも、やりたくはないけれど、やったほうがこの場が丸く収まるからやるのか」

という言葉だったのだ。
その頃の私は、すべてに鈍化していて、今思えば、演劇を学びながら、自分の理解を深め、自分を取り戻す作業をやっていたのだと思う。
他人中心の生き方、人にどう見られるのかということを長く続けていたことの弊害が自分の生き方に大きな影響を与えていたのだと知ったのも、この言葉を聞かされて以降だった。

けれどもその時の私は、どうして芝居の稽古のダメ出しなのに「人生のダメ出し」をされるんだろう?と、稽古場で悔しくて初めて涙をこぼした。
演劇ほど、自分が顕になるワークはない
でも当時は、それが苦しくて仕方がなかったのを覚えている。

世の中には、人のために。
といった言葉が広がっているし、まるで自分のことだけを考えることは間違っている。的な考えも蔓延している。けれど、noteにも何度か書いているのだけれど、物事には、順番があるのだ。
ここ間違えると、人は崩壊してしまう恐れがあるので要注意だ。

人のことをやれる人というのは、ぶれない自分があってこそなのだ。
ぶれない自分というのは、自己分析がしっかり出来ているということ。
それがあって初めて、人の為に何が出来るかを考えられるようになるのだ。

自分がわからない。
何をやっていいのかわからない。
という人も多くいるのではないかと思う。
私は、人の口を借りれば「本当に色んなことをやってきてるのねーー」ということになるのだけれど(笑)それでも、やらなかったら分らなかったことが沢山あるので、全部やってきた私が私なのだと、今なら胸をはって言える。
分らないなら、やってみればいいのだ。
なぜなら、それが自分にとって心地よいものなのか。それとも、なんとなく違和感のあるのものなのか。を知ることが、自己分析には欠かせない要素でもあるから。

もしかしたら人は、飽きっぽいとか、長続きしないとか言うかもしれないけれど、自分の人生だし、人になんと言われても自分で自分を構築するしか、生きる術はないのだ。
誰かが、自分の人生を生きてくれるなんてことはないし、誰かに言われてもそれが納得できないことを納得したふりをすることは、迷走するだけでいいことは何もない。

そしてもう1つ。
他人の目から通してみえる自分を
本当の自分だと勘違いしないこと。
他人の目から見えている自分を評価したりしないこと。なぜなら、それは要素としての部分はあっても、あなたの全てでは決してないのだから。
人の言葉で迷走を始めるひとが本当に多いから、気をつけてね。
あなたには、あなたにしかないものが必ずある。
それを早くみつけて、活かすことがとても大切。
そしてそれを見つけられるのは、あなた自身しかいないことも、覚えておいてね。

今日も最後まで読んで頂きありがとうございました。
ではまた明日。
同じ場所で。

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