見出し画像

【公演レビュー】2023年2月23日/東京二期会オペラ劇場 プッチーニ:歌劇「トゥーランドット」(ベリオ補作版)

己の実力をふまえた好プロジェクト

上演の詳細は下記リンク参照

歌手は全員際立ったところはなかったが、破綻も目立たず。ひとつ注文をつけるなら、トゥーランドット役とリュー役の歌手に容貌、声質の両面で対照性が乏しく、前者はショボく見え、後者は恰幅が良過ぎた。

オーケストラは薄手のサウンドで時折情けない音を出したが、指揮者は堅実に音楽をまとめた。歌手の力量を考えれば、この程度のオーケストラで良かったかも。もしこの顔ぶれで往年のレヴァインが指揮するメトロポリタン歌劇場のオーケストラだったら、歌手の声はかき消されたと推測できる。

回り舞台の簡素な舞台装置による演出。心理面を表現するサイドは乗降可能な三角形、宮殿に見立てた側は背後にひとが入れる2階建て。
トゥーランドットが皇帝を除く王宮内の男性メンバーの「性」を奪っている設定でピン ポン パンはゲイの宦官、役人はカラーをつけられ、唯一「男性」でいられるのはストリッパーだけ。他方、皇帝や女性たちは真っ白の衣服をまとう。
舞台と空間に陰陽を与え、心理の推移を可視化するのはチームラボの手がけるデジタルアート。明滅、展開がステージと調和していた。
トゥーランドットがカラフの知情意に屈すると王宮内のメンバーは存在理由を失い、「性」の「解放」と同時に自滅。性的少数者の生きる場所は特異な空間、状況のみだと示唆している気もした。
カラフはトゥーランドットと「和解」するため、一旦は自身の「性」を捨てようとするが思いとどまり、2人は手を取り合うかのように振る舞う。
そして皇帝が崩御し、安寧が一応表面上は作られて終わる。
二流の社会は結局人治で「解決」・・・というメッセイジか。

舞台上の演出とアルファーノ版とは異なり、静かに締め括られるベリオ版の音楽がマッチしており、よく練られたプロジェクトだと感じた。後述するプッチーニの本質とも合っている。
日本人の歌手には例えばゼフィレッリの演出より入りやすいし、簡素な衣装ゆえ肉体的負担も少なく済む。
またジュネーヴとの共同制作とはいえ、日本の場合、オペラの舞台装置は基本1公演で捨てられる。従って今回のようにセットを簡素にして、細目は光で表現するやり方はコストや資源の浪費を抑えられる時節にかなったスタイル。公演自体が資源のムダなんだから、なるべくローコストでゴミを出さないやり方を探るのは当然のこと。

プッチーニの本質と故・黒田恭一の至言

NHK-FM「20世紀の名演奏」の案内役として親しまれた音楽評論家の黒田恭一(1938-2009)はプッチーニと「トゥーランドット」についてこう記した。

オペラ作曲家として遅れて生まれたプッチーニには、イタリア・グランド・オペラを完成させたヴェルディと同じ道を歩むことは許されていなかった。そこで、プッチーニは、やむなく、ヴェリズモに立脚したオペラから出発した。それがまた、プッチーニの資質にあっていたということもあった。そのようにしてさまざまな傑作をうみだしていったプッチーニではあったが、最後にいたって、典型的なイタリア・グランド・オペラというべき《トゥーランドット》を作曲し、未完成のまま世を去った。

『不滅の巨匠たち』音楽之友社;1993年

プッチーニの特徴を凝縮している名文。
黒田恭一はある意味上品に「ヴェリズモ」と書くが、簡単に言い換えるとプッチーニのオペラのプロットは「昼ドラ」。
元ネタこそあれど、想像力の羽ばたき方がおかしい台本作家の企みでドロドロもしくは荒唐無稽に仕立てられ、話の展開や言葉の内容のひどいものばかり。「マノン・レスコー」「蝶々夫人」「トスカ」・・・比較的まともなのは「ラ・ボエーム」くらい。音楽はとても緻密に書かれているため筋の陳腐さが一層際立つ。

「トゥーランドット」もしかり。プッチーニとしては「アイーダ」ばかりの時代悲劇を狙ったのだろうが、実質的には痴話ドラマと化している。
そもそも皇后ならともかくなぜ王女があれほど権力をふりかざせるのか不可解だし、「先祖の恨み」と振る舞いの関連性も説得力がない。
例えば過去のトラウマで王女が性的に男性を愛せないもしくは何らかの事情により子供を産めない身体でそれゆえ・・・というのならまだ理解できる。
しかも、謎(これもまたあまりに簡単でなぜカラフまで誰も解けなかったのかと思う)を解かれたのに反抗するさまは噴飯もの。
女性は知性がないと言っているに等しい筋立てで現在の御時世で反発を受けないのが不思議なほど。
カラフの側も没落した国の王子が一発逆転の政略結婚を狙って謎に挑んだとしか考えられないが、なぜか君主の父親はおしとどめる。そしてこの君主はおかしなことにカラフに殉じたリューの姿を見て自害をほのめかす。
どこの世の中に女奴隷の後を追う君主がいるか。
「アイーダ」で時代物とメロドラマを融合させ、グランドオペラにまとめ上げたヴェルディに対して、結局プッチーニはグランドオペラを目指すも痴話狂言から脱せなかった「トゥーランドット」を完成できずに亡くなった。
さらにプッチーニのピアノスコアでは静かな終わり方を探っていたようなのに、補作したアルファーノが滑稽なクライマックスをつけ、二流のおとぎ話にしてしまった。
本公演で採用されたルチアーノ・ベリオの補作版は、20年ほど前にリッカルド・シャイーが委嘱したもので音楽的論理性では遥かに優れている。

こうしたプッチーニと「トゥーランドット」の「昼ドラ性」からみて、今回の演出の挑戦は一定の説得力を有した。もしワーグナー、リヒャルト・シュトラウスでやられたら首をひねったかもしれないが。
先述のようにベリオ版の終わり方と演出の整合性は高く評価できるし、作品の内包する側面、当事者の実力の確かな認識の上に形成された上演だった。

※文中敬称略


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?