『佐藤栄作日記』から透ける「国葬外交」【怖いほどのしたたかさ】

意義ある「弔問外交」とは

前回の記事で吉田茂元首相の逝去(1967年〔昭和42年〕10月20日)から国葬(同年10月31日)まで当時の佐藤栄作首相がどう動いたか、『佐藤栄作日記・第4巻』(朝日新聞出版)の記述を軸に追った。

2022年9月27日に行われた安倍晋三元首相の国葬ではいわゆる弔問外交(喪服外交)という言葉が盛んに飛び交ったが、吉田茂元首相の国葬に際しての佐藤栄作首相は当日の日記に「官邸で外国の連中のレセプション。これも万事OK」の一言で済まし、殆ど関心を示していない。
日本での弔問外交に注目が集まる機会は後年訪れる。
それが、1980年の大平正芳元首相の内閣・自民党合同葬の際に実現した、アメリカのカーター大統領とチャイナの華国鋒首相の会談。なぜなら両国の正式な国交正常化後初めて行われた首脳級同士の会談だから。
こういうのは後にも先にもこの時だけだろう。

目測力でチャンスを掴み「沖縄返還」へ

一方、佐藤首相はアメリカのアイゼンハワー元大統領の国葬で弔問外交の機会を見逃さず、実質的な外交成果に繋げている。
アイゼンハワー元大統領は1969年3月28日に逝去した。報せを受けての動きをやはり『佐藤栄作日記・第4巻』(同)から引用する。

3月29日(土)
早朝元大統領予てより病気療養中の処逝去、かねてよりこの事あるを予知し岸を葬儀に派遣する事として居たので、外相と相談し保利も加はり岸を特使と決定。尚、仏はドゴール大統領、西独はキーシンガーと各々最高責任者を派遣。然し我国は生前特別の交際のある岸を煩わす事とした。尚、ニクソン大統領は2日まで喪に服すると云ふ。
(中略)
公邸で岸兄と中食を共にして別れる。ニクソンとの会見の模様等打合せをする。

佐藤栄作日記・第4巻pp.420-pp.421

佐藤首相が「アイゼンハワー元大統領の国葬に岸信介元首相を派遣」と決めていたのには意図があった。

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