剣沢生活炊事場

山岳会 戦中の苦悩と戦後の復興

1941年(昭和16)12月8日、太平洋戦争が勃発。

すべてが戦争一色となりました。日本山岳会の会報誌「山」は、132号 1944年(昭和19)7,8月 を最後に休刊となりました。

1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲によって虎ノ門にあった日本山岳会の事務所は瓦礫となり、貴重な書籍や山岳会の歴史が記された印刷物がすべて灰となりました。人的な被害も、会員の約半分、6~700人が罹災し、多くの会員が命を落としました。

瓦礫の中で途方に暮れた会員達でしたが、「山に帰ろう」とすぐに山岳会を再生するための努力が力強く始まりました。出版するための紙の入手にも困難を極めましたが、2年の空白を経て、戦後、133号が1946年(昭和21)4月に復刊しました。

学徒出陣で再び日本の土を踏むことのできなかった学生もたくさんいました。ピッケルを銃に持ち替えて遠い戦地で故郷の山々を思ったに違いありません。


戦時中の山岳部と休部

「日本大学山岳部八十年の歩み」通史(2004年発行)より抜粋

1937年(昭和12)の盧溝橋事変に端を発した日中戦争は、徐々に戦線が拡大され、1938年(昭和13)4月には国家総動員法が公布され、5月には、その最初の発動として、工場事業場管理令が公布、工場等への学徒の動員が始まった。1940年(昭和15)9月には日・独・伊三国同盟が調印、1941年(昭和16)に入ると、日米間の関係が、風雲急を告げるようになり、7月11日には、文部省より『在京学生の離京禁止(禁足令)、合宿等の禁止令』が文部次官通達(7月1日付)という形で発令された。「時局の緊迫に鑑み、学徒の運動試合、合宿遠征等を一切中止して、待機の姿勢をとるべし」と言うだけで具体的な説明のない通達は、真剣に夏山合宿の準備をしてきた部員達にとっては、納得しかねることではあったが、時勢のおもむくところ如何ともしがたく、断念せざるを得なかった。
文部省から団体行動が規制されたこの年は、ほとんど山に行けず、マラソン等で非常時にそなえ訓練を行なっていた。これに対し大学当局は、文部省の方針にもとづく学内新体制のため、運動部は報国団(隊)結成のため解散を命ぜられ、非公認となったために、5月以降は、部内の統制力は弱まっていった 。そのこともあって、8月以降は少人数による個人山行が行なわれるようになった。
(中略)
その年の12月8日には太平洋戦争が勃発し、すべてが戦争一色となった。

1941年(昭和16)も押し詰まった12月24日には、文部省は、全国の学生の体位向上 と 練成の徹底を目的に、「大日本学徒体育振興会」を発足させた。各競技スポーツ団体は、直ぐに、「大日本学徒体育振興会山岳部」の傘下に入ることになったが、文部省当局は、学生山岳部だけは特別扱いで、「大日本学徒体育振興会山岳部」が傘下に入ったのは、1年後の11月であった。この組織は、橋田体育振興会会長(文相)が槇有恒以下次の委員を指名し、1942年(昭和17)年11月6日正式に発足した。委員は、渡邊八郎、西堀栄三郎、今西錦司、本郷常幸、堀田弥一、伊藤秀五郎、初見一雄、中屋健弌、織内信彦の9名であった。このように橋田文相が選んだ委員には当時の登山界の重鎮が網羅されていた。

太平洋戦争勃発後、緒戦における戦況は比較的順調に推移したこともあって、小グループでの登山は続けられていた。1942年4月28日、文部省は、体育局運動課長北沢清の名で、東京都下の学校山岳部の部長と一名の山岳部学生幹事を文部省に招集し、学校山岳部のあり方についての文部省としての指導方針の説明を行なった。この内容については、日本山岳会『会報』118号(1942年7・8月号)に、当時、東大生だった中村徳郎氏により紹介されているが、それによれば、北沢課長は、①学徒と登山、②国外遠征のこと、③学校山岳部に関して、④行政的な問題、⑤学業と山と、⑥資材について、⑦関東高校山岳連盟について、⑧日本山岳連盟について、など戦時下の登山についての文部省の方針が、項目別に詳細に説明されていた。北沢課長は、長らく陸連の役員もされたことがあり、登山も好きで、学生時代には穂高で岩登りも行なった経験もあり、その後、欧州在勤の際には、アルプスの一端にも足跡を残されている。大学・高校山岳部の本質を理解された上で、当時の学校山岳部に対して適切な方針を出されていたので、少し長くなるがその要旨を紹介しておきたい。

「我々は何故山へ登るか。山が好きなるが故に山に登るのである。実際には山への行き方も各人各様に異なるであろう。かくして心身の鍛錬ということも、その目的・効果の一つたり得るであろうが、結局山に登ること自体が、純正な登山の目的である。国家目的に合致するというのならば、いよいよ結構な ことであり、文部省としても当然そうあることを希望し、且つその実現のため、支援を惜しむものではないのである。しかるに曰く教養を高めよ、卒業を早くせよ、卒業したら直ちに軍教育を受けよ。それがためには、強健な体を鍛えておけ…云々と。一方学用品は不自由であり、運動するにも道具がなく、運動すれば、飯が足らぬという障害が起こりがちである。それらの事の為に萎縮するようであってはならぬ。単に登山の効果的方面のみについて考えても、登山や、探検に対する理解や知識なくしては、今後大東亜共栄圏の指導など出来ないことは明瞭である。

山へ行くことは、その者にとっては全生活そのものである。実際に山に登るときだけではなく、平生に於いても精神的にも、肉体的にも山に登る心構えを持ち、また実際山に登るためのあらゆる準備を怠ってはならない。現在の日本は、一人でも多くの教養ある人物を必要としている。従って、このような時局下に遭難者を出すことは絶対に防止しなければならない。万全を期して行くべきである。然る上にも不可抗力の遭難があったなら、これは已むを得ない。その人は誠に気の毒である。我々は、更にそれを綿密に研究して後に資することを忘れてはならない。尻込みしたり、恐れをなす如きだらしないことであってはならぬ。勇敢に積極的に進んでもらいたいと思う。

更に各論について言及すれば、我が軍の制圧地域がヒマラヤの近くまで拡大したことによって、その高峰登山も身近なものとなり、当該地域への国外遠征(学術調査・探検)も、副次的には国防的使命と効果も期待できる。学校山岳部での登山訓練を通じて得られた、高度な技術と崇高なる登山精神は、将来、指揮官として、必ずお国のために役に立つ。学徒は学問に励むことが、本分であるが、真の山登りを通じて得られた文武両道の体験は、立派に学問に準ずるものである。山登りには、ザイルなどの装備が必要であり、費用もかかる。文部省はこれらの経済的負担をサポートすることも考えているし、食糧などの支援も行なう用意がある。各学校の山岳部は、夫々自主的に各々の道を歩んできた。登山と言う 特殊な性質から見れば、そうあって欲しい。むしろ各々特徴を生かして運営してもらいたい。ただ、お互いに共通の問題(資材の分配など)のためには、現在は、関東の大学山岳部には横のつながりがないので、連盟のような横の組織も必要ではないかいか。体位向上を目的とした単なるハイキング的なことは、厚生省傘下の組織に任せればよい。学校山岳部はこれら一般登山者に対する援助・指導にはむしろ進んで協力して欲しいが、本来の目的だけは忘れないで欲しい。」

戦線が拡大し、これから益々困難な時期を迎えようとしている時でもあったが、アルピニズムの精神を忘れていない文部省体育局運動課の考え方には、各大学山岳部とも大いに励まされた。

1942年(昭和17)年4月には、艦載機により東京が初空襲されたが、5月には戦局が一時好転したかのごとく見えたこともあり、日大山岳部でも小グループで4月に富士、谷川岳、甲斐駒、5月に穂高への 山行を行なった。7月には文部省の特別の計らいで米の特配を受けて、坂省三リーダー以下28名で例年通りの夏山剱沢生活を実施することができた。

しかし6月のミッドウェー海戦後、戦局はますます厳しくなってきた。12月にはガダルカナル島の撤退 が決まった。

この頃には部の集まりも交番に届け出なければならず、山岳部の集会中に特高警察に踏み込まれたこともあった。その頃の議論の中心は"生と死"の問題で、「山での死、戦場での死」について真剣になって討議した。結論としては山で十分に体を鍛え、また登山を通じて習得した山登りの戦略や戦術等の技術は、軍隊に入ってからも必ず役に立つと思われるので、堂々と山に行こうではないか、というものであった。

10月2日には在学徴兵延期臨時特例(文科系学生、生徒の徴兵延期停止)が公布され、文科系の学生には召集がかかり戦地へ赴く者も多くなったが、工科系(工科系と医科系は入営延期ができた)の部員が多かった我々の部には、残っている部員も多く山岳部の活動は続けられており、1943年3月には北尾根から奥穂への極地法が行なわれた。5月には谷川岳、6月には前穂高奥又白、7月には剱沢に入山し夏山生活を行なったが、これが戦前の最後の合宿となった。

同年10月21日、神宮外苑の競技場で、文部省主催による出陣学徒の壮行会が行なわれた。11月17日には、日本山岳会学生懇談会に関係のある学徒の壮行会が日本山岳会主催により、産業組合中央会館に於いて開催され、木暮理太郎会長の代理で出席された槇有恒副会長が壮行の辞を送り、出陣する学徒を激励した。

日大山岳部は1943年(昭和18)11月11日、千住柳原の神山OB宅に関係者が集まり、戦局に鑑 み山岳部の活動を休止することにした。

部員の中にはピッケルを銃に持ち替え、 敗色濃厚となった戦線に出征し、二度と祖国の土を踏むことなく亡くなられた先輩も増え、十三名に達しました。

西村重行(昭和17年フィリピン島)
飯高望宏(昭和17年6月20日ビルマ)
野沢流磨(昭和19年8月5日)
川崎信三(昭和19年12月28日)
馬渕龍彦、大林力、川西岩夫(昭和20年8月瀋陽)
吉田博男、相模悼、南正秋、三田貞夫(レイテ島)
上江田清広(沖縄本島)
飛田実(ラバウル)。

(中略)

1945年(昭和20)は米軍の沖縄への上陸、3月10日、5月24日両日の東京大空襲に続く激しい空爆により、日本の主要都市は焦土と化し、8月6日広島、8月9日長崎への原爆投下の後、8月15日の終戦を迎えた。ここに昭和の激動史とともに翻弄された山岳部は創部22年にして、部の活動を休止せざるを得なかった。


山へ帰ろう -小島烏水- 日本山岳会の復興と再生

会報「山」135号 1946年(昭和21)6月 より

私どもは、今廃墟の中に立っている。どこを見ても、きな臭く煙っぽい。この頃の、新緑もえるが如き朗らかな朝ですらも、黄昏の色が低迷している。地面は、焦土という単色な絨毯で覆われてしまった。その間を、右往左往する人々の間に、整然たる合唱がなくて、三々五々、無秩序にプップッ呟く独語があるばかりだ。

日本山岳会の事務室も、瓦礫と灰になった。事務所ぐらい、と言うなかれ。そこには、山岳会成長の歴史があり、恐らく日本一と称しても不可なかろうほどの、山岳図書が、集積されて中には又と獲難い希書珍籍もあった筈だ。それが、凡て炎上した。物は心に繋がる以上、物と心とはそんなに截然(せつぜん)と切り離すわけにはゆかない。無い物づくしでは、手も足も出ない。それよりも、尚を悪いことは、全会員のほとんど半数なる六七百人が罹災して、その中には戦没者、罹災死者、病死者もあろうし、幹部といったような人たちの間にも、飯塚篤之助君夫婦の東京空襲下に於ける行方不明。黒田孝雄君の、比島山中に於ける戦病死などが、報道された。今では何と言っても、東京に集団していた有力会員も、地方へ疎開離散して、一室に集まることも容易ではない。事務打ち合わせ会も、或時は私の住宅で、或時は松方義三郎君のお宅で行われるような現状である。こうゆう移動不安定な状態は、当分つづくかも知れない。

しかしいつまでも、茫然自失でいることは許されない。一体どうしたらいいのであろう。先ず考えてみなければならないことは、山岳会設立の当初は少数な「物好きな」人たちの蕭散(しょうさん)なる寄り集まりでしかなかった。或は文学的に、或は画因的に、或は自然科学的に、或は社会文化的に、又は体育的に、山を一つの中心点として寄り集まったに過ぎなかった。それが今では、山というものは、人間が招かずとも、向こうの方から歩いて来て人の心の中へと入りこむまでになっている。最早、啓蒙時代は過ぎた。「山岳会以前」と「以後」とは、それくらいの一線が、略ぼ引かれているばかりでなく、時勢も舞台をブン廻した。

ここで私はゲーテの「伊太利紀行」を引く。彼は二月十七日に、羅馬(ローマ)の廃墟に遊んで、早春が戸外に訪れて来たことを言い、こうなると、誰も郊外へ出たがる。今までは、神々と英雄ばかりを弄っていたのであるが、今や忽ち風景の場面が廻ってきた。」と書いている。本当に私も先づそれを言いたいのだ。東京でも今頃は、神々と英雄ばかりが、弄られたり、押し売りされていたのであったが、今は自然の聲と姿が、人の心に、沁み込む季節と時代になって来た。

もう空々しい神がかり的説教に聴く耳を、人々は持たなくなった。私供としても、一意専心に、心に染まぬ雑役を強制されずに、山へと向かって、まっしぐらに進むことが容易になってきている。山岳会の復興にしても、再生にしても、この清々しい境地から出直される。

しかし復興も再生も、そういう内部的な精神状態や、外部的な自由環境や結合だけで、成就はできない。辛うじて「手から口へ」の惨めな原始的生活に呻吟(しんぎん)している現在、インフレの経済的困難、会報一つ出すにしても紙の入手難、会務維持に必要なる会員の拾収と会費の問題、等、等、等、数へ来れば会の存在を危うする困難と苦情の原因は、乏しきを憂いない。

阿修羅大王は、焼夷弾の下ばかりでなく、平和回復の今日に至って一層逞しく、破壊の猛威を振るうものの如くである。考えように依っては、山岳会建設当時よりも今の方が、一層又は数倍の悪条件の下に置かれている。先ず持って立つ地盤がある。又たとえば、建設当時は、我々は平原に佇立して、撫でられるような山へ、静かに歩を運ばれたのであるが、今では谷底へ突き落されて、その平原へ這い上がるすら容易ではない。山へ寄り附くどころの沙汰ではないと言う様な、手厳しい拒絶を痛感させられている。ここにいう山という名詞は、象徴的な意義を含めての使用と、取ってもらっていいのである。

そうだ。仏教の修養法は、絶対的勢力に向かう努力であると教えられた。人類間の戦争であるとは申しながら、今となっては、私共は戦争という事実上の不可抗力(たとえ絶対的勢力とまでは言わないとしても)に向かって、努力しなければならぬ。否、山岳会ばかりでなく、国民全体に、投げかけられた宿命がそれであってみれば、私共も、甘受してそれを耐え、それを善化しなければならぬ。実際、私共は殆ど凡てを喪失したが、しかし主観的に見れば、凡てを捨てた人は多大の物を持ってあましている人々よりも、強いのである。赤手空挙(せきしゅくうけん)で、絶対的勢力とか、不可抗力とかに立ち向かうことは、労して功なきが如くであるが、無の一字から出立することは、却って無限の強さを創造することになる。そこに単に山岳会と言わず、恐らくこの時代の創造性が、胚胎しているとすれば、自行するのみである。

「自行能はすんばいずくんど、救うことを得んや」である。又考えてみれば、過去の山岳会でも、何となく気が重く、自潰に近かった時代も無いではなかったようだ。それを思えば、捨てるのは得るのであり、そこから新しい出発と希望の将来が餞けられるのである。

しかし、こんな言い方では、抽象に過ぎて、具体的な手段方法が、一つも示されていないではないかと反問されるかも知れないが、今では根本は人の問題である。人の気迫叡智の問題である。物は無くても、乏しくても、人は有る。徒らに難局を他に委譲しながら、傍観者として清談を楽しんでいるように、取られるかも知れないが、こういうときに、人間の原高貴性に信頼しなくて何を信頼しよう。私は「苦しい時の神頼み」を取らなくて、寧ろ「苦しい時の人頼み」を取る。

最近に受け取った役員会の通知に依れば、会長及び副会長の推薦も近く行われるということであるし、理事、幹事、監事、新評議員の候補の顔ぶれも定まった由である。第一歩は既に踏み出された。

そうして、一時硬化しかけた山岳会の動脈も、新時代性を強く脈拍するであろうと期待している。それだからと言って、素より、今から直ちに百歩を跳躍するような演劇的な放れ業を、期待しているのではない。私供は、足並みを揃えてかのマッターホルンの勇者ウィンパーの、山登りの時の歩き方のように、歩々重く、併しながら確かに、徐々に故郷の山へ帰るべきである。

今の老政治家、当時の自由思想家、いわゆる「歌人」ならぬ自由歌人尾崎行雄先生の作歌一首を引いて本文の結びとする。

むらさきのつつじ花咲く里行けば わが山想いしいざ帰りなむ

(昭和二十一年五月十五日 阿佐ヶ谷草堂にて記す)


歪められた登山思想 -冠松次郎-

会報「山」135号 1946年(昭和21)6月 より

戦時中には登山と言うのは戦争を遂行する為に山に登り、山に鍛えるのを指したのであって、それが即ち皇國登山道なりと強調されていた。すなわち団体で登る。隊伍(たいご)を組んで登る。しかし軍隊式に鍛錬する。個人で山登りをする者は直ちに異端者と目され、自由主義者として糾弾されていた。ここでは山の自然を味わうと云うことはほとんど考えられていない。

しかし如斯(かくのごとく)は実は山を練兵場と等しく心得、山を手段として利用し、行動したのであって、眞の登山と云うこととは全くかけ離れた、似而非なる登山運動であると云わねばならない。

我等の登山と云うのは山を手段とせず、これを相手とし、目的として、その表現する大きな自然の中に、我等の全身、全霊魂を打ち込んで行く、それが主なるものである。これは単独行が最もよく、良きパーティーの場合も又よい。自由に山に登り、山の快味を味わい、山の自然に味到する。そこに代え難い悦楽があり悟境があるのだ。

勿論戦争のような非常時局に処し、非常措置として青壮年者を鍛錬する為に、最もよい道場として山を利用する事は甚だ効果的であって、何れの國に於いても、極力これを奨励実行しつつありたることと思う。しかしこれはどこまでも鍛練という範囲を出ない。前述の如く眞の登山ではない。然るにこれを以て眞の登山なりと僭し、元来自由なるべき登山思想を厭迫(えんぱく)し、これを蔑視した、私の謂う歪められた登山思想とはこの事である。

更に一つ、その当時全国の登山団体を打って一丸となし、下から盛れ上がる山岳人の力を以て青壮年者の心身を鍛錬し、非常時局の資に供せんと企てた全国的の運動が発足した。ところがそれが何時の間にか官僚によって、軍部によって歪められ、僅かな官職をもっている者が、己の職権を利用して登山界に望み、己の大きな背景を以て上からこれを厭迫(えんぱく)し、遂には軍人を首脳とした、民間の団体とは似てもつかない所謂翼賛団体をでっち上げた。その為に元来自由であるべき、新鮮である筈の各人の山岳に対する態度が、たとえ一時的とは云え屏息(へいそく)してその跡を絶ったかの感があった。これにも又盛れ上がる民意によらず、官僚によって強圧統制された所に、歪められた登山思想を見た。

勿論、この雑音の渦中にあっても、終始自分達の抱懐していた主義を曲げず、思想を堅持し黙々としてこの変潮を見送っていた識者のあったことは申すまでもない。

当時私は彼らをもってしかし甚だ非なる登山人の、あまりに偏狭であり、非山岳的であるのを指摘したが、かえって自由主義者としての謗りを受けた。時代は変遷して今日の情勢となり、やがて山岳界も一陽来復の曙光を見、本来の道を巡り得るに至る。誠に感慨深きものを私は痛感する。

英雄閑日月ありと云う。鍛錬を超越し、山に溶け自然に合する。その大らかな気持ちを一向に卑下し汲々乎(きゅうきゅうこ)として馬車馬的に盲動したそう云う傾向の裏に敗戦の素因の一つが潜在していたものと思うは非か。

(昭和二十一年五月一五日)

参考資料
1)日本大学山岳部八十年の歩み 通史 日本大学山岳部2004年発行
2)日本山岳会 会報「山」135号 1946年(昭和21)6月発行


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