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『ポケットモンスター スカーレット・バイオレット』DLC 『ゼロの秘宝』のストーリーが良すぎたので、ネタバレ込みで中年男性が一人スグリに感情移入している会

※ネタバレを盛大に含みます。圧倒的に既プレイにしか向けていない文章です。未プレイの人はぜひ今すぐ遊んでみてください。

※極めて個人的な解釈なので、全くの検討はずれの可能性があります。また、他の解釈を否定したい意図はありません

本日配信ポケットモンスタースカーレット/ヴァイオレットのDLC第二弾、『藍の円盤』の話がむちゃくちゃよかった。マジで良かった。どれくらい良かったかでいうと僕が思わずこの記事を書くくらい良かった。何度でもいうけど本当に良かった。ポジショントークと思われても構わない。何度でも良かったと言いたい。それくらいテーマが僕にとって身近なものだったし、演出がすべて綺麗に繋がっていたと思うし、ゲームにしか、ポケモンにしかできないことをやっていたと思う。美しい作品だとすら思った。


ダブルバトルが演出として機能しているのがすごく良かった

ブルーベリー学園がなぜダブルバトル中心に展開されているのかは、このゲームをクリアする瞬間まで正直疑問だった。ゲームの公式大会はダブルバトルだから、ダブルバトルを推したい意図があるのかもなあくらいに考えていた。とはいっても国内の人気はやっぱりシングルバトルのほうに分があるように思うし、ダブルバトルはその選択肢の多さから抵抗感を覚える人もそれなりにいると思うしで、ダブルでいいんかなあ、なんて思っていたけれど、今になって思えば、これにはちゃんと意味があった。

『碧の仮面』『藍の円盤』は、スグリのための物語だ。『碧の仮面』でのスグリの扱いはさんざんだった。最愛の姉の関心は主人公に取られ、自分だけが信奉していたオーガポンも主人公に取られ、その思いを乗せて対戦を挑むも、主人公には決して勝てることはない。里を救ったのも結局は主人公であり、自分の村を自分で守ることもできなかった。四面楚歌。ボコボコだ。

そのうまくいかない原因をスグリは自分の弱さだと結論づけて迎えたのがこのDLC第2弾の『藍の円盤』だ。久しぶりに見たスグリの様子は豹変していた。前作と比べれば見た目からして明らかに荒くれており、周りの人間には強く当たりちらし、ポケモン選択も対戦環境でメジャーなポケモン達が並ぶようになった。

しかしながら、それでも主人公に勝てることはない。血のにじむような努力をして、勉強をし、どれだけメジャーなポケモン選択をしたところで、勝てない存在がまたしてもそこに現れてしまう。僕はプレイ中、一体このスグリをどうやって救済に導くのかが気になっていた。さすがに天下のポケモンがこの少年を救済しないことはありえないだろうというメタ思考がありつつも、しまいには「伝説のポケモンを捕まえれば主人公に勝てるに違いない」と息巻いてエリアゼロに飛び出した時はもうこの少年に救われる道はないのではないかと思ったし、もしかしてもしかしてしまうのではないかと、正直思っていた。

実際、伝説のポケモンであるテラパゴスをご自慢のマスターボールで捕まえて主人公に挑むも、やはり勝てない。僕はオーガポンのツタこんぼうで急所を引いてスグリのテラパゴスを倒したが、その終わった性格は見て見ぬふりをしてほしい。しかしスグリは一体どうなるんだと思ったのもつかのま、テラパゴスが暴走して主人公が窮地に追い込まれる。

主人公がスグリより強いことは、たった今証明されている。テラパゴスを使っても勝てなかったことで、伝説のポケモンという最後の言い訳すらなくなってしまった。はっきりいって、自分は目の前の主人公よりも弱い。圧倒的に弱い。しかし、今、そんな強い主人公が、一人では立ち向かえない敵と対峙してしまった。頼りの姉も直前に「もうヤバソチャしかいない」と言っていたし、そのヤバソチャも倒されてしまった。教師は役に立たない。窮地の主人公を救うには、主人公より弱い自分が、主人公の横に立つことでしかありえない。そんな状況になってしまったのだ。

スグリは戸惑っていた。自分は主人公より弱く、できることなど何もないのだと言う。この気持ちが僕には痛いほどわかる。対戦ゲームをしていて好成績を残しても、社会に出てみても、自分の上位互換的なその存在を前にして、僕がこれをやる意味などないのではないか、全部僕より優れたあの人がやればいいのではないのかと、何度思ったかわからない。

スグリは少し諦めた表情の後、咆哮し、決心してポケモンを出す。出したのはカミツオロチ。このカミツオロチは地元であるキタカミの里を由来にするカミッチュの進化後ポケモン。今回の新ポケモンでありながら、特異な進化条件を持っている。

カミツオロチへの進化条件は、『ドラゴンエール』という、ダブルバトルにおいては味方をサポートする技を覚えさせることだ。とくせいは『かんろなミツ』。相手の回避率を下げて味方を助ける特性を持っている。スグリが何度もテラパゴスに打ったそのわざは『みずあめボム』。威力は低いが相手のポケモンのすばやさを下げる。

つまりこれは、血のにじむような努力をし、勉強をし、時間を費やし、チャンピオンになるまで登りつめ、自分を追い詰め続け、言い訳を消し続けて最強を求めたスグリが、圧倒的な才能の前に自分がかなわないことを受け入れ、才能の差という理不尽な現実を受け入れて、すべてを持った主人公をサポートすることを選んだのである。こんなの、泣いてしまうではないか。

中年男性である僕は、このスグリに圧倒的に感情移入してしまった。このテラレイドバトルはただの共闘ではない。スグリの決意そのものなのだ。これはスグリが出したポケモンがカイリューでも、ウーラオスでも、ザシアンでも成立しなかった。『ドラゴンエール』を覚え、様々な手段で味方をサポートすることが得意なカミツオロチだったからこそ、この描写には意味がある。

二人でテラパゴスと対峙するテラレイドバトルが、あるいはこのゲームのダブルバトル的性質が、ここまでに事態を雄弁に語るのが、僕はゲームのストーリーとして美しいと思った。

対戦環境において非常に強力なポケモンがいるとしよう。しかしどんなに強力なポケモンでも、ダブルバトルを一匹で戦いぬくことはできない。相性補完やサポート技、控えの圧力等があって、はじめてそのエース級のポケモンはエース足り得る。思い返せばこのブルーベリー学園の四天王たちは、先発枠にサポート枠のポケモンを必ずと言っていいほど採用しており、相互補完してはいなかったか。この話はダブルバトルが盛んなブルーベリー学園だからこそ、成立しているのだ。

すべてがインターネットで相対化され比較される世界において、カイリューのようなエースになれる人が、対戦環境で名を轟かせることのできる人が、どれだけいるだろうか。オーガポンに無条件に好かれ、物語の主人公になれる人が、この世に一体どれだけ存在するのだろうか。世界は全ての人が強くなれるのだと啓蒙し、何者かになれるのだと訴えかける。攻略動画や攻略記事が上がり、あなたは知らないだけであり、誰もが最強になれるのだと宣うけれど、ランクマッチの世界一位は、圧倒的な勝者は、原理的に一人しかありえない。その現実を受け入れがたいから、死後に転生して主人公になることが可能な、異世界転生の話に多くの人が思いを馳せている。

『藍の円盤』はそうした時代性に訴えかける作品のようにも思えた。スグリがドラゴンエールを使うカミツオロチになることを肯定する物語であり、スグリがカミツオロチを主人公の横に出すまでの苦悩を描いた物語だった。

誰もがエースになることはできない。そこには残酷としか言いようがないほどの才能の壁がある。しかしエースをサポートするポケモンがいるからこそ、戦ってくれる対戦相手がいるからこそ、そしてポケモンバトルを一緒に応援する観客がいるからこそ、ポケモンバトルは成立しているのではないか。エースだけがポケモンバトルを作るのではない。その周囲こそがポケモンバトルを形どっている。

『藍の円盤』は勝敗という世界の残酷さを真っ向から受け入れた上で、それでも前に進むことを肯定し、その意義を教えてくれている。決して安直に、事態を友情の力や愛情の力で解決していない。かつてこれほどまでに自分の苦悩を受け止めてくれた作品に僕は出会っていなかったから、もの凄く心を動かされてしまった。

オーガポンとテラパゴスの対比


スグリがテラパゴスを捕まえた後、テラパゴスが暴走し、マスターボールが壊れてしまう描写がある。明らかに強調して演出されていたから、あれが何を示しているのかが気になった。少なくともスグリの中の心理的な何かをテラパゴスが壊したことを意味していそうであったが、その瞬間はピンときていなかった。

配信の視聴者と話していて良い解釈だと思ったのが、あれは言い訳を壊したのだ、という解釈だった。つまり、スグリはオーガポンを主人公に取られてしまったことを、その時点までは負けた言い訳にすることが可能だった。主人公に伝説のポケモン(=オーガポン=テラパゴス)を取られてしまったから自分は勝てなかった。だから負けても仕方がない。自分も伝説のポケモンを使えば主人公に勝ちうるのだという言い訳が、主人公にテラパゴスを倒されてしまったことで打ち砕かれてしまい、それがあのマスターボールの破壊と対比になっているという考え方である。

『碧の仮面』と『藍の円盤』で最も大きく違う点は、タイトルを冠する伝説のポケモンが、スグリと主人公どちらの手に渡ったかという点であり、これは『碧の仮面』で成しえなかったスグリが伝説のポケモンを手にしたifストーリーになっている。

僕が『藍の円盤』を良いと思うのは、スグリが圧倒的に主人公の才能に破壊される点なのだと思った。環境による努力不足という言い訳があったから徹底的に努力をし、伝説のポケモンという言い訳があったから伝説のポケモンを捕まえるが、その才能に決して勝てることはない。主人公が急所を引いた時にスグリがとんでもなく激昂する(ウーラオスの『すいりゅうれんだ』でキレられた時は「勉強不足なのでは?」と思わず内心煽ってしまったが)のも、本当は主人公に才能で負けていることを認めたくないから、そんな理不尽な世界を受け入れたくなかったからこそ、言い訳可能な部分で強く言葉を発しているのだと思った。

細かいところも

激辛サンドウィッチを作る時にクセで上のパンを皿の外側に捨てたら「パンの上を置かないのはパルデア流なのかな?」的なことを言われた時はおったまげてしまった。その瞬間は細かい作りだなあ……と思ったけど、冷静に考えてみれば上のパンを捨てさせているのは一つ具が落ちれば別のサンドウィッチになるシビアすぎる仕様を考えた人間のせいであり、そしてパンを乗せなくてもサンドウィッチが成立する仕様を切った人のせいなので、今はなんで僕が煽られなければならないのだという気持ちになってきた。

こんな小粋な小ネタを用意してまで突っ込んでくるくらいなら、最初からサンドウィッチのシビアすぎる仕様をやめるべきである。これは譲れない。

テラピースはいっぱいくれてありがとう。タロちゃんはかわいい。あまりにも計算されたかわいさだが、それもまた良い。この後もDLCたくさん楽しませて頂きます。ダブルのガオガエン楽しみだ。

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