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じゃんけんでいつも最初にパー出すの知っているからわたしもパーで

じゃんけんでいつも最初にパー出すの知っているからわたしもパーで
(須田千秋)

短歌ください」に収録されている、須田千秋さんという方の短歌。

じゃんけんの勝ちに対する執着を「わたし」からはあまり感じられなくて、当事者なのにじゃんけんを俯瞰で眺めているような思考の距離感がとても好きな歌。

相手の【最初にパーを出してしまう】という本人も気づいていない癖が「わたし」の握っている弱みで小さな秘密なのかも。それを知っているという事は少なくとも「わたし」は相手とそれなりの親しみがありそう。関係性でいうと「わたし」の方がやや優位な気がする。

弱みを握っているイメージからこぶしの形のグーが想像されるのだけど、【数秒でもこのじゃんけんを長く続けるために仕向けたあいこ】に相手への好意と、余裕があるように見せている「わたし」のいじらしさが解(ほど)かれるように「わたしもパーで」に転写されていて、その不器用さに愛おしくなる。
たぶん、読み手の視点の着地点になるのは二人の手元で、【お互いが手を差し出している】景色である以上、手を繋ぐようにも何かを手渡すようにも敷衍される物語の余地がつくづく良いなぁと思う。

最初にパーを出すのを知っているなら初手で勝ってしまえばいいのに。
それを「わたし」はしない。あなたに勝つことが目的じゃないから。ひねくれを内包しつつもどこか相手へのささやかな回答めいているのは、少しでも同じ時間を共有したく、このじゃんけんを数秒でも長く続けようとしている無意識の中の「素直じゃない意志あるわたし」を強く感じるからかもしれない。


似たような感覚をおぼえる歌に

約束はやぶっていいよ 指切りがただしたかっただけなんだから(天野慶)

という歌がある。

この歌も【指切り】の行為そのものが主体にとっての到達点、といえば似ているかもしれない。


ここまで読み解いてみたとき、どこか特別な場面に立ち会っている感覚になるのは、二人のじゃんけんが、なにか誓いのような【儀式】に思えるから。お互い同じ手を出した時にこそ通じ合う、みたいな。

だからなのか、歌の中に後光というか、射し込む光みたいなものを補完して描いてしまう。コピーライティングすると【世界一短くて静かな告白】というふうな立ち止まらずにはいられない場面。


じゃんけんの世界では、あいこは偶然で無駄な時間のはずなのに、この後二人は何を出すのか、勝つのはどっちか、じゃんけんを終えた二人はどんな関係になるのか、ただただ二人のじゃんけんを見守るしかない歌のこちら側で僕はずっと掴まれている。

解釈のしすぎ感は許してください。

じゃんけんのあいこの時間を短歌の中で永遠にしてしまった切り取り方がたまらなく美しくてずるい。 今まで目にしてきたどの歌もなかなかこれを飛び越えてくれない。
褒め言葉として書いておくと、たぶん作者は巧く作ろうとしていないし、美しく留めておこうとも思っていなさそう。
詩情から遠ざかってるというか、短歌に詩情を持ち込んでいないというか……そんな描かれ方をしている歌がなんとなく変わらず好きで美しいなと思う。


最後に、以前短歌のラジオ「短歌のくせになまいきだ」という番組をやらせてもらう事になった時、初回の一首目に紹介したのがこの歌だった。
この人の歌がもっと読んでみたくて探したけど「じゃんけんで〜」以外に見つけられなかった。
もしかしたら自分の一番深い所に入り込んだ短歌かもしれなくて、この人が人生で作ったたった一首だとしたら、すごい事だなと思った。

#短歌

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