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幕末最強代官! 江川太郎左衛門英龍

代官と言えば、≒「悪徳」!?がつきまといますが、幕末の伊豆には、そこらの藩主よりも影響力のある善良かつ超優れ者代官がおりました。その名は、江川太郎左衛門こと英龍ひでたつ。日本の近代化、世界遺産にも貢献しましたが、世界遺産を知るよりも、彼の存在と生涯を知る方が価値があるのではと思うくらいです。では、中伊豆の日帰り旅行へ出発!

いざ「中伊豆」へ

本日も三島駅からスタート。JRの駅舎は、富士山をモチーフにしたもの。以前の駅舎も同じく富士山型。
それにしても、外国人観光客の多いこと。もう富士山に登る季節でもなく、新幹線の駅があるとはいえ、ここからどこに足を運ぶのか、聞いてみたいくらいです。

三島駅南口駅舎 左下には水の街に相応しく湧水の小さな噴水
1934年完成時の三島駅 小さい屋根は宝永山?愛鷹山? 背後に富士山も (wikiより)
「いずっぱこ」三島駅
本日はこちらで「伊豆長岡」迄

西武鉄道からの車輌を譲り受けております。車内はロングシート。市街地を抜けて、田園風景を走ります。

地元だからか、いつ乗ってもホント平凡な「いずっぱこ」 のどかです
三島から20分強で到着 乗っていた学生もたくさん下車
温泉場に向かう「伊豆箱根バス」が停車

頼朝ゆかりの地、蛭ヶ島ひるがしま

今日は、昼過ぎからの散策、レンタサイクルにはちょうど良いところにいくつか回りたいスポットがあるため、迷わず「HELLO CYCLING」。アプリで見れば、近隣の至る所に自転車ステーションが複数あり、便利そう。

田園地帯を爽快に走ります~

トラクターがそこかしこに走り、稲刈りの季節。中伊豆の田園地帯を往きます。時折見える、ビニールハウスは、イチゴの栽培。シーズンは12月中旬からゴールデンウイークまで、まだ苗を植えたばかりでしょうか…。

左に富士山(雲で裾野しか見えず) 右には箱根の外輪山と駒ケ岳 
もう2か月くらいでイチゴ出来るのか?!

三嶋大社の宮司の筆により巨大な案内碑が現れ、「源頼朝公 配流の地 蛭ヶ小島」とあります。平治の乱の後、頼朝、辛うじて命だけは繋がれ、ここに島流しになりました。20年近くをこの地で過ごすのでした。

巨大な遺跡碑

海でもないのに「小島」とは如何に。近くには狩野川台風(1958)で有名な狩野川が流れています。この川、今では堤防もしっかりしていて、放水路もあり、氾濫の可能性は極めて低いですが、山々に囲まれた中伊豆の雨を一手に集めて流れているため、かつては間違いなく暴れ川。氾濫原も広く、まともに人が住めない地域だったと推測します。自然堤防のような部分が削られたり、三日月湖が出来たりしているなかで、「島」のようなエリアが出来、名付けられたのはほぼ間違いでしょう。

頼朝が住んでいた場所をピンポイントで特定できてないのですが、今はココが「蛭ヶ島公園」として整備られています。公園の端には、18世紀以前に建てられた民家がそのまま小さな民俗資料館として保存されています。

旧上野家住宅
比較的大きな民家との解説
昭和のころまで使われていたであろう民具

おそらく、頼朝が住んでいた場所はここまで立派ではなかったのだろうと想像もしながら見学。流された頼朝を乳母たちが彼を支え、この地で、北条政子と出会うのでした。頼朝三十一歳、政子二十一歳、当時の年齢としては晩婚であると同時に、お家の事情がつきまとう政治的な結婚ではなかったのも確かでしょう。

茶屋もあり、蕎麦も食べられます
政子・頼朝 蛭ヶ島の夫婦ふたり

ここが、鎌倉幕府胎動の地!

今日は富士は見えず…

伊豆の中心だった「江川邸」

さらに自転車で数分のところに、小高い丘を背にした江川太郎左衛門のお屋敷、江川邸が見えてきました。随分広い敷地で、威厳のある雰囲気漂う。

外から見ても風格が伝わってくる
 門をくぐりますが、正面はお偉い方の入口なので、KEEP OUT
脇の通用口から内部へ

木造の平屋に50坪の土間、二階部分がない、こんな造りは初めてみました。熱心な解説員の方がおりまして、聞けば、主屋は1600年頃に建てられ、増築・改築を繰り返し、古い部材は数百年以上経っているとのこと。日蓮もこの家に立ち寄り、火事がおこならないように祈願したとかでその棟札むなふだも残っている。

50坪の広い土間

ここで、ムムッ?鎌倉時代から家があったの?というところで、江川家さかのぼれば、平安時代、源氏と平家の争いから逃れる形でやって来たのでした。この韮山の地にたどり着いたのは、清和源氏の流れをくむ初代、源満仲の次男、頼親よりちかから。1000年以上も続く家なのでした。
これを考えると、源頼朝がこのあたりに流されたのも、これらの縁があってのことでしょう。

そして、江川太郎左衛門とは、ここの当主はそのように呼ばれるのですが、その江川家の中で最も有名なのが、36代目当主の英龍ひでたつ

江川英龍 

肖像画を見るとこんな風貌、特徴的な大きな目と日本人離れした鼻!
身長も大きい予感がしますが、六尺あったそうで、180cm強、当時の日本人だとおそらく巨人のレベル。イギリスの軍艦が下田に来た時には、交渉役に抜擢されました。彼の見識と経験だけでなく、この体格と風貌も選ばれた要因だったのではないか。普段は質素倹約の生活を送るも、この時ばかりは、下のような豪華な袴を着て、交渉に臨んだとか。

現物も保存されているようです

交渉センスもあり、イギリス人も、これは侮れない国だと感じたことでしょう。

絵も達筆で自画像あり

そして、江川家は現当主がおりまして、東京に住んでおられるとのこと。ちょっとした地元の新聞の切り抜きが置いてあったのですが、36代が英龍、江川洋さまは、42代目の当主。英龍の息子や孫の写真もありましたが、あまり似てないのですが、現当主はもう、そっくりじゃないですか!びっくり!
血は争えないですね。

韮山反射炉が世界遺産に登録されたころの記事(静岡新聞 平成27年7月7日)

英龍の功績は数知れず…

この英龍の功績は数知れず、最も有名なのは、後ほど紹介する「韮山反射炉」を竣工させ、幕末の江戸の国防のために尽力を尽くしたこと。お台場の建設も行いました。
代官としては、伊豆、駿河、相模、武蔵、甲斐の5カ国を治め、二宮尊徳とも交流があり、全国的な飢饉も乗り越え、破綻しそうな家の再建などにも一肌脱いだりして、「世直し江川大明神」と呼ばれていたとか。

韮山の役所では治めきれず、江戸にも役所(出張所?)を出していた

余談ですが、廃藩置県の初期には「韮山県」があったそうで、そのまま存続していたら、県庁所在地は韮山だったという…。

そして、展示されている古文書から、「敬老祝い金」を当時から出していたという記録もありました。これも驚き。しかも年齢は九十代後半、解説員の方もサバ読んでたかも!?とは話してましたが、ずらりと並ぶ名前はほとんど女性。やはり昔から長生きは女性のようです。

ヘダ号の造船に携わったのもこの英龍でした。

さらには、「韮山塾」という私塾も開設し、蘭学の中の兵法、高島流砲術を教えることもしました。最初の門下生は、誰かというと「佐久間象山」。
吉田松陰が慕っていた人物の一人で、明治維新の影のキーパーソンでもあります。

奥儀誓詞(これはレプリカですが本物も所蔵) 入塾の時の誓いの文まで残されています

この塾では、兵法の習得だけでなく、山の中を駆け巡り実際の訓練も怠らなかったようです。何日も渡る行軍訓練で、食べ物をどうするかということで、英龍は、パンの存在を知るようになります。そして、この地で、明治に入る前に既にパンが焼かれて、食されていたということで、英龍は「日本のパンの祖」という位置づけだそうです。

長期保存が出来る乾パンのようなパン

ということで、代官の域を超えて、救国の時に、才能爆発させたのが、江川英龍だったのでした。
この私塾には全国から塾生が来ていたとのことで、
今は「韮山高校」という進学校が近くにありますが、この高校の前身は、この「韮山塾」だそうで、高校に入った1年生は皆さんこの江川邸を見学に来るそうです。
正直、この田舎になんでこんな進学校があるんだろうと昔から疑問でしたが、ようやく謎が解けました。静岡東部には「沼津東校」というこれまた旧制沼津中学の高校があり、井上靖も出している学校ですが、その学校よりも歴史があり、静岡県内で一番古いのがこの韮高(にらこう)だそうで、今年で150周年! 恐れ入りましたmm

土間に置かれたパン焼き窯
「パン祖の碑」パンの普及に貢献を称えて

まだまだ、紹介したい江川家ですが、時間切れ、紙面切れで、次のスポットへ。里山の道をひた走ります。

コスモスがまだ咲いております

世界遺産「韮山反射炉にらやまはんしゃろ

江川邸の衝撃冷めやらず、反射炉はもう行かないでも良いかというやや放心状態ですが、せっかくなので…。
初めて来たのは親父と一緒に中学の時でした。殺風景なところに反射炉がポツンと立っていた記憶はあり、サッと見て帰ってきた程度。
その時と比べたら、観光客が多いこと。外国人の方もいますが、日本の歴史に相当興味なければ、つまらないのではないかと余計な心配までしたくなります。

世界遺産ともなると整備が進んでました 昔とは全然違う!

館内にはちょっとしたシアターで解説を聞き、展示品もこちらで造られたであろう品々が並んでおります。

当時の展示品も多数あり

さて、日本の反射炉の歴史は、1850年に初めて佐賀藩で完成しましたが、この建造にも江川家は協力しています。佐賀藩なので、官営ではありません。そして、1853年、アメリカ東インド艦隊のペリーが浦賀沖にやって来て、大騒ぎになり、「来年また来る」といったペリーの来航に備えて、江川英龍に白羽の矢が立ち、台場の建設と大砲・砲弾を作るための反射炉の建設を命じられるのでありました。
当初は、下田の北、河津に反射炉を造っていましたが、アメリカの水兵が、たまたま?建設現場に侵入して、これはまずいということになり、急きょ、中伊豆のここ韮山の地に反射炉を造り直すことになりました。

筒の短い大砲 こちらは本物

韮山反射炉自体の稼働はそれほど長くは続かなかったようですが、この地で造られた大砲や砲弾は日清・日露戦争でも使われました。

官営の後は江川家の所有となり、維持改修を経て今に至る

しかし、江川英龍は、この反射炉の1基が完成した後に亡くなってしまいます。江戸で息を引き取りましたが、当時の状況は過酷で、心労極まりなかったのではないか。反射炉の建造、ヘダ号の建造とロシア人帰国案件、お台場の工事、安政の大地震の復興、韮山塾の運営、農兵隊(国防のための自衛組織)の拡張…。
結局、反射炉の4基の完成とヘダ号の完成を見ないまま亡くなりました。当時の東アジアの状況と日本の国防の深刻さを考えると、この幕末・明治維新の対応は、ぎこちなさはあるもの、江川英龍ほか、当時の日本人の決断と行動は賞賛に値すると言わざるを得ないでしょう。

記念碑とカノン砲(復元)
こちらにも熱心な解説員の方がおり、感謝!

当時から現存する反射炉としては唯一のため、世界遺産登録されました。
当時を偲びつつ、今の日本と世界の現実を見ながら、祈らずにはいられません。

中伊豆に凛と立つ「韮山反射炉」

まさかの伊豆長岡温泉共同浴場

長岡駅から、自転車で、どこも十数分圏内なので、陽は西に傾いていますが、ここまで来たら、長岡温泉に立ち寄るしかなでしょう。ただ、豪華な露天風呂は要らないので、いいお湯に浸かりたいと、改めて観光案内所でもらったお風呂マップを覗けば、外湯が一つあるではないですか。

反射炉から向かうは「長岡南浴場」
オフロードの農道を駆け抜けて
狩野川の堤防を越えて
「伊豆長岡温泉」の標識 このあたりからが温泉街
なぜか玉川北投石の湯治場…
長岡の温泉街に入るも、
外湯が見当たらず…

引き返しまして、ようやく発見。長岡のメインの温泉街も、初めて見ましたが、イイ感じに鄙びておりました。

雑居ビルの奥に「長岡南浴場」
施設は新しめですが、のれんが鄙び過ぎ笑
まだ建て直したばかりか

PHは9.1で、アルカリ性単純泉、源泉は60度前後のため、若干加水とのことですが、浴槽の温度差はあるはずが、どちらもかなりガツンとくる高温。久しぶりの高温泉で、癒されました。
加熱も循環もさせておらず、ほぼかけ流し。伊豆長岡にこんなお湯があるとは全く知りませんでした。

浴槽は二つ こじんまりとした浴場ですが、大満足!
無味、無臭 湯上りは、すっきり 肌やわらか

よくよく考えれば、1200年以上も温泉の歴史があるエリアなので、外湯がないわけがない。番台のおじさんに聞けば、過去はいくつかあったけど、最近もひとつ無くなったとのこと。今は、「ココと古奈温泉に一つ、川の向こうにもひとつあるよ」ということで、3つもあるとか!
ということで、他二つも含めて、後日、長岡温泉外湯はご紹介します!

湯上りに目に留まる過激な!?「シルバー川柳」 ↓このあたりはヤバい
「誕生日 ローソク吹いて 立ちくらみ」
「恋かなと 思っていたら 不整脈」
「手をつなぐ 昔はデート 今 介護」
射的アリ
みやげ屋アリ
再び夕暮れの「狩野川」を渡って

長岡駅に到着。今日はこちらのハローサイクルが大活躍。

お疲れさまでした!
夕暮れのいっぱこ車窓
お隣の「韮山駅」には、創立150周年の横断幕が眩しい

ということで、秋の夕暮れ。半日サイクル&ウォークとしては、歴史と癒しのひと時となりました。(2023.10.21)

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