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ようやく開眼!?「温泉伝説」

古い温泉には「開湯伝説」がつきもの。大きくは3つ「神話(仏教伝来以前)からの言い伝え」、「動物が傷を癒した」、「僧侶による発見」。このうち、「高僧による発見」は、どうも以前からスッキリしないままでした。ある紀行文から、ようやく腑に落ちる考えに至ったので、ささやかながら共有したく。そんなのは当然でしょ、というご意見もあるかもですが(^^; 温泉コラムっぽくなるのか…⁉

高僧による発見というモヤモヤ

さて、「開湯伝説」の分類は厳密でもなく、被る所もありますが、まず、「神話からの言い伝え」ということでは、各地の「風土記」「日本書紀」などに出てくる温泉は、事の真偽は置いておくとしても、「ここに温泉にあり!」という記述はゆるぎありません。
また、動物伝説は、鶴、白鷺、鹿、猿などが、傷を癒したということで、それを見つけたところから始まり、人も癒されるようになったとか、また「白い動物が見つけて…」ということでは天からの「使い」が見つける様にしてくださったとか。後付けも多いかもしれないですが、まだ村ができる前もしくは、人が多い場所から外れたところで見つかり、そこに人が集まり、さらに村ができ、昔からの生活に密着した存在として、その温泉があったことになるでしょう。
しかし、高僧による発見は、
まず、仏教の中に、施浴(寺院などにおいて、貧しい人々や病人らに浴室を提供すること)という施しが古くからあったとしても、どこのお寺にも存在していたわけではなさそう。また高僧も宗派と時代によりさまざまおられるけど、行基と空海がずば抜けて開湯伝説が多く、これもなぜこの二人が多いのか、文献もほとんどなく、やはり後付け伝説的な観はぬぐえない…。

「イザベラ・バードの旅」(日本奥地紀行を読む)宮本常一

平凡社ライブラリーもしくは「講談社学術文庫」より

ところで最近読んでいた「日本奥地紀行」、こちらは、イザベラ・バード(19世紀のイギリス人の女性紀行作家)が書き残してくれた紀行文。1878年(明治11年)に日光から北の街道に外国人女性がこのような形で入るのは初めてであり、かつ鋭い観察眼(自身のスケッチ、旅の情景や人物・文化・宗教に至るまで)と率直かつ大胆なる美文で綴られており、まさに一級品、いや特級品。
これを宮本常一が観光文化研究所の所長時代に、解説・講義をしたところから生まれた一冊です。「日本奥地紀行」はそのまま開いて読んでも面白いのですが、この宮本常一の解説は、普通に読んでいたら通過してしまうような、一文や出来事から、当時の状況をより鮮明に浮かび上がらせてくれます。ありきたりな表現ですが、宮本常一の膨大な経験と知識がなせるわざであり、こんな読み方と伝え方ができる学者はもういないんじゃないかと思えるほど。
「日本人にとって当たり前のことは日本人は書かないし、書けない」、この奥地紀行にはそれが書かれています。

蚤の大群、貧弱な馬

奥地旅行に出発する前に、バードは日本に先に入っている名だたる諸先輩方に日本の旅行のアドバイスを聞きに伺うのですが、そこで出てくる話はきまって「蚤の大群と馬が貧弱(で荷を運ぶのが大変)」が問題、ということでほぼ見解は一緒。あと、食べ物は大丈夫なのかという議論。女性一人旅の安全は問題なし、と言われていたようですが、彼女の旅行計画に、多くの人が反対しました。それでも彼女は、「行く」のです。
旅の初日、「午前11時に公使館を出発し、午後5時に粕壁かすかべに着いた」と埼玉県の春日部まで行くのですが、ここで「蚤の大群」の洗礼を浴びます。
「蚤の大群が襲来したため、私は携帯用の寝台に退去しなければならなかった」
そしてそんなこんなの理由で、二晩は、筆を執ることもできなかったと。
彼女が蚤に阻まれないで睡眠ができる工夫を途中から編み出すものの、この状態が旅の最後まで続きます。

害虫、皮膚病、お風呂の問題…

さらに、蚊の大群にさいなまれ、スズメバチ、虻、大蟻などにも嚙まれたと書いてあります。ずっと昔には、日本の女性の旅は、笠の周りに「虫垂(むした)れぎぬ」を付けていたのですが、これは姿を隠す+(まさにその名の通り)虫よけのためとのこと。江戸時代にはだいぶ使われなくなったが、それでもバードにとっては害虫にかなり手を焼いている。

京都 風俗博物館HPより

次に着るもの。これは当然、江戸や京都とかとは事情は違っていたと思いますが、ひとたび貧しい山間部に行けば、着物が十分ではなく、洗うこともせず、毎日同じものを着ていた模様。汗をかくような仕事の時には男性はふんどし姿!で仕事ということになるのです。

東洋文庫 日本奥地紀行1 より

「この人たちはリンネル製品(麻の服)を着ない。彼らはめったに着物を洗濯することはなく、着物がどうやらもつまで、夜となく昼となく同じものをいつも着ている。

「日本奥地紀行」イザベラ・バード

それらが主な原因で引き起こされるのが、皮膚の病。
行く先々で、病気の人、特に皮膚病を持っている人が多く、彼女が泊る場所で、誰かしらを治療してあげると、その噂がすぐに広まり、次から次へと病人を連れてくるのです。まるで、異邦の地を回った時のイエスのような光景です。

父親や母親たちは、いっぱい皮膚病にかかっている子、やけど頭の子、たむしのできている子を裸のまま抱きかかえており、娘たちはほとんど眼の見えなくなった母親の手を引き、男たちはひどい腫物を露出させていた。子どもたちは、虫に刺され、眼炎で半ば閉じている眼をしばたいていた。(略)
病人は薬を求め、健康なものは、病人を連れてくるか、あるいは冷淡に好奇心を満足されるためであった。私は、悲しい気持ちになって、私には、彼らの数多くの病気や苦しみを治してあげる力がないこと、たとえあったとしても、薬の貯えがないこと、私の国では絶えず着物を洗濯すること、絶えず皮膚を水で洗って、清潔な布で摩擦すること、これらは同じような皮膚病を治療したり予防したりするときに医者のすすめる方法である、と彼らに話してやった。

「日本奥地紀行」イザベラ・バード

最後にお風呂について。こちらは、宮本常一の文から…、こんなに全国にお風呂の文化が行き渡ったのは、戦後のこと。

それから日本人に病気が多いというのが出てきますが…、
決して一か所だけのことではなく、日本全体の当時の衛生状態だったとみてよいと思うのです。よく、日本人はきれい好きである、風呂好きであると言いますが、それは、江戸、大阪や京都などの町に見られた現象であって、村へ入ってみると風呂のない所が非常に多かったのです。特に東北地方に風呂が普及し始めるのは、今度の戦争がすんでからなのです。風呂釜は主に広島県で作っているのですが、戦後それが東北地方へすごい勢いで売れていって、ずっと全国に風呂が設けられるようになるのです。

「イザベラ・バードの旅」 宮本常一

ということで、私たちが想像する以上に、生活環境の悪さから引き起こされる問題が多すぎるのです。

「温泉」発見が当時の最適解!

行基は、仏教が日本に入って1世紀が過ぎたころの僧侶、民への直接の教えを禁じられていたにもかかわらず、全国を歩き回り、貧困者の救済と社会事業を起こしました。さらにその後の時代、空海も中国からの知識で、土木的な知見を持ってましたし、この二人が尋ねたところは、行く先々、まさにこんな状況であったと考えられます。尋ねた土地で、村の事情を聴けば、生活の改善で、真っ先に取り駆らねばならないのが、病と衛生面の問題。各家に風呂を作ろうものなら、大量の薪・水が必要、湯舟もない…。そうしたら、温泉を見つけることで、多くの人を癒すことが出来たはず。二人の高僧がここまで多くの温泉を発見したとは考えにくいかもしれないですが、仏教の教えもさることながら、彼ら自身であろうとその弟子や門下の者であろうと、民の救済を願う、その彼らの「熱心」と「天の恩恵」により見つかった!ということだと思うのです。

「奥地紀行」とイザベラ・バードの勇敢さ

奥地紀行は47歳の時の作品

最後に、この「奥地紀行」とバードのフォローを一言。ちょっと大変な日本の状況ばかりを引用してしまいましたが、決してそんな本ではなく、旅を同行してくれた者たちが自分の仕事に忠誠を尽くす姿とか、日本人が生活の中で子どもをとても大事にしていること、家の中で夜、家族が共にする時間を楽しむことなど、数多くの日本の良さが綴られています。「我らイギリス人はどの国民よりも、こういう家族の過ごし方をしていない」とか、自身の文化も省みたりしています。確かに彼女の率直する文体が気に障り、西洋の知識人が上から日本の文化を見ているようなやや批判めいた評価を受けるのも事実ですが、当時の圧倒的な文化・生活水準の差、「時代性」から考えたら、彼女が日本と日本人に接する真摯な姿勢と眼差しは、民族的なものを超えての慈愛に満ちていると私は思います。彼女の勇敢な行動がなければ、当時のこの地域の日本人の実際をうかがい知ることはできなかったでしょう。

ということで、初の冗長なるコラム?!
お付き合いいただきありがとうございます~

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