見出し画像

由比・興津(駿河の隠れ名所図会)

去年、内田百閒先生にいざなわれ、地元地元の旅で大きな発見の一つが、静岡は清水の近くにある「由比・興津」のエリアでした。東西に広い静岡なので、静岡出身とか言っても、ちょっと足を延ばすと知らないことばかり。今回は家族と共に、去年の旅の追伸となります。ちょっと前回もマニアックな記事でしたが、今回も同じく…です。
昨年の記事はこちら↓↓。

静岡らしい「ほのぼの憩いの場~駿府城」

昨年は「どうする家康」づいていた東海地方ですが、妻のリクエストにより、まずは小学生以来の駿府城へ。うる覚えの記憶では、天守閣もないし、少し石垣が残っている程度の印象でしたが、全くそんなことなかった…。

 駿府城公園の北側、北御門橋から入城
それなりの石垣の城壁

しかも、天守台の部分は発掘中で、大規模工事しています。何でも天守閣は江戸城よりも大きく、日本で一番大きかったのではという話もあるようで、焼失してしまったのが残念。

静岡市HPより

さて城内のミカンの木、家康公お手植えのミカンということで、400年以上前?からのミカンの木ということになり、中国から入った「紀州ミカン」の一種、香りの強い小さなミカンがつくそうです。

キンカンより一回り大きい実が一つだけ見えました
ミカンの幹の付け根が分からない 枝が地を這う

地を這っているミカンの木は初めて。やはり、400歳以上ということで、重力のなすがまま。生きてるだけでスゴイ!

隣には勇ましく家康公がすらりと立っていらっしゃる
こんな窓から発掘調査の現場も見れます

早春の駿府城公園、まさにほのぼのとした空気が流れ、家族連れ・写真撮る方、散歩する方、内外の観光客など、なんとも静岡らしいひと時。

ピンクの花は、梅かと思いきや、「河津桜」でした 2月には咲き誇る伊豆の早咲きの桜
お隣には「土肥桜」、こちらも伊豆の桜、これは初めて 花が下向きでかつ枝ぶりも不思議

また少し離れたところには「献上伊東小室桜」。こちらは見事な8分咲き!

祖父母が住んでいた「小室山」感慨深い
ほとんど満開の桜のようで、メジロも喜んで飛び交っております
茶屋に静岡おでん 時間がなくて通過のみ
東御門 こちらは巽櫓と共に平成8年(1996)に復元 巨大な丸太二本の梁が印象的

現在の駿府城は巨大な櫓二つがあり、自分が小学生の時にはまだ復元しておらず、殺風景なお城だったのが、ここで分かりました。こんな門からも、天守閣の大きさを想像してしまいます。

東御門の横には上田城の真田石のような巨大な石

門の横の大きな石は、象徴的な何か意味するところがあるんでしょうね。
ところで、これらの石どこから持ってきたのか?と思ってましたが、解説がありました。ほとんどが静岡市の中心街から少し離れたところからでした。南の大崩海岸は東海道線の難所です。

城壁の石はかなりの近隣から採掘

ということで、由比・興津への前座が長すぎ…。日も暮れ始めて、資料館には入れずで、時間切れ。

再び割烹旅館「西山」

由比にたどり着いたのは夕暮れ時。
かつての宿場町「由比」には現在二件しか宿泊できるところがなく、一軒は、線路沿いです。昔だったら迷わず線路沿いの旅館を取ったかもしれないですね。東海道線の夜行列車が見れるので。

夕暮れの「由比ゆい駅」
去年に続き、二度目の「西山旅館」

昨年衝撃を受けた「桜えびのから揚げ」を家族にも味わってもらうため、再びこちらへ。

桜エビ三点から並びます
今回はこちら、太刀魚の塩焼きがひときわ美味しかった 大きな地元の黄色いカボスをかけます
メインの桜えびのかき揚げに大きなサザエ

この桜えびのかき揚げの香ばしい香りはもう来て食べてもらうしかない!
今はアワビやサザエはこのあたりでは採れないと思いますが、昔は名産だったようです。

締めは漁師料理「沖あがり鍋」につみれのお吸い物 

この沖あがり鍋を親子丼のようにして食べるのが、一番美味しい食べ方。

広重美術館&由比本陣・御幸みゆき

さて由比は前回行けなかった御幸亭という由比宿の本陣にある小さなお屋敷?を訪ねます。

本陣公園自体は無料で入れます
向かいには家光死後、幕府の転覆を本気でもくろんだ「由井正雪」の生家
清水の次郎長と言い、なんというかキワモノが育つ土地柄なのか…
公園内の交流館に由比宿の模型 実際は目の前は海岸、背中は山を背負っています 
長細い宿場町のど真ん中に本陣が広々と在ったようです

娘は広重美術館の館内で浮世絵の工程体験、妻はじっくり見学。こちらは企画展を中心に見て、お隣の御幸亭へ。

広重五十三次「由比」 汚れないように摺るのはなかなか難し
広重の肉筆画(上野不忍池)

明治天皇が三度も休んだ御幸亭

外観はこんな感じのこじんまりとした本陣の「離れ」になります。早速中へ、300円払って、煎茶がついてきます。

手前には小さな池 この「離れ」は復元したもの

奥行きはあるもののそこまで広くはない造りです。ここに明治天皇が3度も休んだというのは、よっぽど気に行っていたのか、他に休むところが無かったのか…。

六畳の広間が二つ

奥のお庭は小堀遠州作の枯山水。遠州流というお茶の創始者、江戸時代のミケランジェロ的な万能芸術家。

庭の名は「松榧園しょうひえん」 命名は山岡鉄舟という由緒
さすがに植生は変わっているでしょうけど、石は昔のままか…

奥にはりっぱな茶室もあります。こちらは、現役で使われてそう。

茶室「結仁斎」
手前に「にじり口」

そして、かつてはこんな枝ぶりの松があったのですが、昭和50年にマツクイムシにやられて枯れてしまったそうです。何百年も歴史を眺めてきた老松。

生きている時は静岡県の天然記念物に指定されていた 明治天皇はこれが気に入ったかも!

ということで由緒正しいお庭を見ながら、お茶をすすって、御幸亭を後にしました。

馬の水飲み場には巨大亀!

食事処「あおぞら」

月曜と金曜が休日、訪ねるときは要お電話一本

さて、由比で桜えびだけ食べたい!という方がいれば、いくつかお店はありますが、駅近くでのおすすめは、こちら、食事処「あおぞら」。駅の真ん前にあります。
店内は楕円の円卓で、6人座って満席。あまり大人数では入れません。おばさん一人で切り盛りしているようです。食堂の隣のスペースは雑貨もおいてあり、その間仕切りの側には、下記のような由比の自費出版?!地域誌。

何冊かおいてありますが、こちら10作目のミニコミ誌 手書き?!

聞いたところ、山梨の方で、由比のファンになってくれた方がいて、何度も由比に足を運んでくれて、こんな手作り冊子を作って置いて行ってくれるとか。この地を気に入ってくれる方の気持ち分かります。

さくらえび定食(1,500円)釜揚げしらすと桜えびの甘露煮・かきあげ 

「今年秋に初めて、由比の桜えび食べたんですが、今まで食べてた桜えびは何だったのかと思うくらい違うから、また来ました」と伝えたら、
「まあ、嬉しい~~ 隣りの清水に住んでいる方でも、やっぱり由比に来て桜えび食べると違うよね、と言ってくれる人もいるんですよ」と。

いざ、興津へ

由比からはほんの少しだけ富士山が見えます。この日も快晴の中、白い頭の富士。ここから南へ一駅、5分で興津おきつです。

由比駅の跨線橋より
薩埵さった峠の下 車窓からも一瞬見えます

さて「興津」、このマイナーな(と言ったら失礼極まりないですが)、観光地としては、宿泊施設もほとんどなく、温泉や魅力的な自然があるわけではないのですが、「歴史が深いぞ」指数は東海道の中でも屈指!
見どころの一つは、百閒師匠がお気に入りだった、今は無き「一碧楼水口屋」。江戸時代からの様々な「時の人」を泊めており、米国人作家オリバー・スタットラーがこの宿を舞台に残した「歴史の宿」は最高に面白い。

水口屋営業時の庭園 静岡新聞HPより

さらに、そこから数百m離れた西園寺公望きんもち別邸「坐漁荘」も、戦前の日本の歴史を知るには必見のスポットです。

坐漁荘(復元) 

公家出身の西園寺が京都から大工を呼び寄せて造らせており、数寄屋造りのコンパクトな館。一度入ったら住みたくなってしまう別邸です。
さらに目の前には、風光明媚、白砂清松の「清見潟きよみがた」と呼ばれる海岸が続いていたのでした。

砂浜に帆掛け船 「興津鯛」という鯛も獲れた
かつての坐漁荘からの眺めはこんな感じ 「清見潟」は海水浴場としてにぎわう
坐漁荘の二階からは今はこんな景色…

ということで、ここも外すことの出来ない場所。
またしても興津観光協会(あるのか?)の回し者のようなPRぶりですが、今日のメインディッシュはこちら。

本日の"とり"は歴史の寺、清見寺せいけんじ

こちらのお寺、建立は1300年前。天武天皇の頃までさかのぼります。今は臨済宗のお寺ですが、中興の祖は足利尊氏、その時代に荒廃していた清見寺は要衝の要でもあるということで復興させました。

境内も本堂も静岡のお寺の中ではずば抜けて広い

由来は寺の下にある「清見関きよみせき跡」。何でもない二つの石ですが、これが建物の礎石。東北の蝦夷との攻防のため、ここに関を設けました。白鷗時代(7世紀後半、奈良と平安の間)の話であり、日本の歴史の中ではここが北の際だったということになります。

山が迫り、海岸が近かったため守りやすいと判断したのでしょう

今回は、ちょうどボランティアガイドの伏見さんにお会いできて、詳細に聞けました。もうここで半日過ごしても飽きないくらいの歴史の記録の宝庫。

こちらに在る位牌は…なんと天武天皇から始まり、明治・大正天皇、家康等
神仏習合そのもの こちらは教えてもらわねば分からない

全体的には家康の強い思い入れのお寺であり多くのエピソードと遺物があります。鎌倉殿の13人の一人梶原景時が殺害された時の血天井(血痕のついた板張りを供養のために天井の板に用いた。血が天井まで至ったわけではない)あたりも有名な遺構の一つ。

家康との経緯

家康との経緯を数えれば、すぐに分かるものだけでも4つ。
1)家康が今川家の人質時代に竹千代の頃に過ごした手習い部屋

3畳の部屋 違い棚や縁の木は当時のもの

2)家康が晩年に庭園に寄贈した庭石(亀石、牛石、虎石)

「伏牛石」 牛には見えないのですが…
山を背にしたお庭は本当に素晴らしい

3)家康の乗輿じょうよ
「乗輿 徳川家康公 陣中所用」と記載されています。

この位置に御輿(みこし) 家康が、この狭い御輿に乗ったとは思えないですが…

4)家康が接ぎ木した臥龍梅がりゅうばい

こちらも400歳以上??  隣の句碑は与謝野晶子の句

そして、前回紹介した朝鮮通信使は家康が国交回復を目指して始めたこと。12回の訪問中10回はこの清見寺を訪問。幕府とやり取りできる高官から食事を作る人、技芸をする人など300人-400人の一団で、ここには通信使のお偉いさんを泊めたようです。

本堂中央の漢文は当時の記録や詩を木版にしたもの 原本の紙は別に保管
こちらは琉球王国の王子から送られたもの

琉球通信使の歴史もあるのでした。こちらの国交も家康の時からスタート。

芭蕉の句碑

さらに、松尾芭蕉、興津に寄ったことは確からしいのですが、ここで読まれた俳句が記録されていないのでした。そこで、記念の句碑を立てることになり、選ばれたのはこの一句。
「にしひがし あわれさ同じ 秋の風」
この句が選ばれた経緯は不明なのですが、この句碑を立てたら、興津がなぜか不況に…。街の人たちはこの句碑のせいだと決めたらしく、海に葬り去ろうとしたところを当時の住職が清見寺にもってきて、句が見えないように庭に置いたのですが、こんな石橋!として鎮座。当時の和尚のユーモアか分からないですが、これで興津が再び景気良くなったらしい。

句碑なのに「石橋」扱い 哀れなり

お寺のガラス棚の上に、何の説明もなく、置いてありました笑

句碑の表 西東、秋の風、は読めました

トドメは、明治天皇が遷都の時にここを使われた玉座。一段高くなってます。それにしても、徳川家ゆかりのお寺で休まれるとは…。

このまま時代劇で使われそうな雰囲気

と紹介しきれない日本史のエピソードがほかにも山のようにあります。是非、歴史好きの方はお立ち寄りあれ。

清水「河岸かしの市」&静鉄(しずてつ)

さて、帰りは、このまま興津からでは、芸がないので、もう少し足を延ばして、清水港の新名所、「河岸の市」にて、食事をして、初の静岡鉄道に乗ることにしました。

「いちば館」と「まぐろ館」 市場館は海鮮市場、まぐろ館は食事処です
茨城は那珂湊の市場のような賑わい
海が見える「岸屋」にて海鮮丼を頂くも、話が盛り上がりすぎていて写真撮り忘れ
外には清水港を遊覧する水上バス

午後の遅い時間でも、行列が続いてました。海鮮丼はお手ごろな値段で、新鮮でしたね~、回転が速いと思われます。

ヒラメ、ほうぼう、アナゴ…、金目鯛は比較的安価 しかし地のものは少ない
こっちも美味しそう 高血圧が気になるので今回は控えます…

「しずてつ」で新静岡へ

河岸の市から、徒歩10分弱で、しずてつの新清水駅にやってきました。こちらは、とにかく初めての乗車です。

静岡鉄道 新清水駅

というのも、この静岡鉄道は新清水-新静岡を結んでおり、どうにも旅行者は使わない路線なのです。おそらくテツさんでなくても、東海道線草薙あたりから並走して走るこの電車は何?という感じで目に留まる。しかし、どうしてここまで並走していて、経営が成り立つのかという不思議極まりない路線なのです。いきなり会社の勘定の話をするのも野暮なので、まずは改札をくぐります。

2017年にはローレル賞を取っているA3000形

地方ローカル線の終着駅の雰囲気ですが、入線したのは最新のかっこいい二両編成。時刻表を見れば、昼前後でも8分に1本、ラッシュ時は1時間に10本とローカル線とは言えない本数の多さではないですか!

出発してすぐに巴川を渡ります
線路は全線複線 運転手は若手の女性 隣のベテランの方が付き添う 
右側の東海道線と並走区間

県立草薙くさなぎ総合運動場を左に見て、鉄橋で跨ぐのは川ではなくて、東海道線と新幹線。

鉄橋で跨いで、東海道線の北側にスイッチ
11km、二十数分の旅はあっという間に終わり

我らが宮脇俊三、原田勝正編の「鉄道の旅」によれば、「しずてつ」の生い立ちは以下の通り。

静岡鉄道静岡清水線の開通は明治41年(1908)。もともとこの線は、静岡茶を運送するための鉄道として生まれた。明治初期、静岡茶が清水港から横浜を経由して、外国に輸出されることになった。当時、静岡から清水港まで牛車や荷馬車で茶を運んでいたが、それでは輸出競争に負けてしまう。そこで、静岡と清水の有志が金を出し合って静清線を建設したという経緯がある。現在は廃線になったが、昔は清水港の波止場まで走っていた。

全線全駅鉄道の旅 東海道JR・私鉄1900キロより

こんな立派な通勤路線に変化するとは、当時の人たちも分からなかったでしょう。次、来るときには「清水港」周辺を掘り下げてみます!

今日はこのあたりで…

ということで、最後の最後はテツで締めてしまいました。長々とお付き合い頂き、ありがとうございますmm  (2024.02.11-12)

この記事が参加している募集

旅のフォトアルバム

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?