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明末の文人・李卓吾 中国にとって思想とは何か(劉岸偉)


劉岸偉 著
中央公論社1994

本書を読むまで知らなかったのだが、著者の劉岸偉氏は、ぼくと同じく北京外国語大学日本語科の出身だ。しかも、東京大学に留学した点でも同じ軌跡をたどっている。といっても、この大先輩のお目にかかったことは一度もない。彼が北京外大を卒業した1981年は、ぼくがまだこの世に生まれてきていなかった。ぼくが北京外大に通う頃には、彼はとっくに博士号を取得し、日本の大学で教授をしていた。会う可能性があるとすれば、日本在住の北京外大OBが集まる同窓会くらいなのだが、あいにくそのような場を好まないぼくはできるだけ出席しないようにしている。そして、本書を読む限り、劉岸偉氏も同じ人種に思えた。

それでも、読みながら勝手に劉先輩の声を想像できるほど、ぼくは彼の書く文章に親近感を覚えた。北京外大を出た以上、彼もぼくも日本語はほぼ完璧だが、さすがに論文を書くとなると一から学びなおすところも多い。しかし、東大の先生は留学生に日本語の論文の書き方を教えてくれるほど親切ではない。すべては自分で読んで読んで読みまくって、体で覚えるしかないのだ。だからぼくたちが書く日本語は、必然的に自分が傾倒し繰り返し読んだ学者の影響を受けることになる。劉岸偉を例にいえば、溝口雄三の文体の影響が随所に見て取れ、それに気づく度に、ぼくは思わず頬が緩む。ぼくの父親とほぼ同い歳の彼が、ときにはボロアパートの小さなデスクで背中を丸め、或いは東大文学部図書室の資料の探しにくさに閉口し、さらに総合図書館のカビ臭さ漂う地下書庫に半日も潜り酸欠になりながら、日本の先達が書いた書物に没頭した様子が、目の前に浮かんできて、そのことにどうしようもなくノスタルジーを覚えるのだ。

こうして、学問の世界から逃げたぼくは、失礼にも今現在東京工業大学で活躍されている劉氏に自分の姿を重ねた。しかも、そうした経歴だけではない。外国語を勉強し、その国へ行き、そしておそらく二度と祖国に定住することがないであろうぼくたちは、劉氏がまえがきに書いたように、帰国する度に「この国の体温と呼吸にじかに触れたような気がする。この生身の感触は新鮮で、また懐かしいものでもあった」という感慨に浸る。そして、これまた同じように、中国を外から眺める言いたい放題の人々に違和感を覚えるのである。劉氏によると、1993年の時点では、チャイナウォッチャーたちが「官民を問わずこの社会の隅々にはびこる腐敗と物欲に溺れる拝金熱に目を見張っている。十数年前の人民中国を知っている人々はなおさら歴史と現実のギャップに戸惑う」のだという。他方、「中国から脱出した人々は、このギャップを埋め合わせる形で、いままで外部に知られていなかった毛沢東の中国の恐ろしい実態を暴き、世界を震撼させた」。こうして、1990年代前半において、恐るべき独裁国家としての中国のイメージが固まり、同時に中国人の強欲さも世界に広まっていった。

それらの主張に一片の真実があることは否めないとしても、論者たちが2022年現在のチャイナウォッチャーと同様に思い込みで物を言い、中国を脱出した人たちに至っては、いつの間にかスティーブ・バノンのような陰謀論者と歩調を合わせてしまった。肝心な中国そのもの、中国人そのものを見ようとする人たちは、1993年も2022年も同様に少ない。だから劉先輩の次の言葉は、まさしくぼくの思いをも代弁している。

かつて信仰に燃えていた人間が、いつの間にか金の亡者と化すのはなぜだろうか。それを単に人間の無節操や大勢順応と解釈するのは、あまりにもありふれた見方ではなかろうか。(中略)革命中国は一度もユートピアたりえたこともなければ、歴史の中国や現実の中国から切り離された「異常時空」でもなかった。そこには虚妄な生もあれば、真摯な死もある。崇高もあれば、卑劣もある。情愛、信義、中傷、裏切り……庶民日常の悲歓が昨日演じられたごとく今日も行われ、明日も繰り返されていくであろう。多少の例外はさておき、平均的な庶民にしてみれば、信仰を追い求める昨日と金銭を追い求める今日とは、感覚的にはそうかけ離れたものではないはずだ。それを「豹変」と見なし、不可解に思うのは、まさにこの「感覚」を解しないからである。

こうした「感覚」はどうすれば身につくのだろうか。ぼくはいまだにこの感覚を忘れがちだが、劉氏は完璧に身に着けたようだ。そして彼は、「李卓吾を読むことによって獲得した」という。この話はにわかに理解し難い。李卓吾は明末の人だ、そんな彼が、いかにして劉氏の現代中国に対する視線を変えたのか。

その答えを知るために、まず李卓吾の生涯を簡単に振り返ってみたい。1527年生まれの彼は、明末を生きた思想家だ。名は贄で、卓吾は号である。科挙に合格した後に官吏となり、54歳で辞職し著述に専念した。一応儒家とみなされることの多い彼だが、明末の三教合一のトレンドを反映し、道、仏の諸学にも通じており、加えて母方がムスリムの家系だったため、彼は多種多様な思想の影響を大きく受けたと言われている。その影響あってか、65歳の頃の主著『焚書』は儒教の規範から大きく外れた倫理観を提唱して世間を驚かせ、73歳のときに書かれた歴史批評『蔵書』でも、正統な史観に異を唱えた。しかし、これらの大胆な言論が中央の保守的知識人の逆鱗に触れ、老齢にも関われず李卓吾は投獄されてしまい、最後は獄中で自殺した。亡くなったのは1602年、江戸幕府が開かれる前年のことだった。

言論が弾圧されたことには嘆息するしかないのだが、それだけ李卓吾の言論が当時影響力を持っていたということである。中央政権が掲げる価値観との正面衝突があったものの、彼の思想や言論は、実は明末の知識人の恰好な代表だったといえる。明末とは何かを一言で説明するのは難しいが、本書の記述を引用するのなら、以下のようになる。

李卓吾が生活していた十六世紀後半の明末は、既成の世界像が崩れ落ちかけて、混沌と不安のなかに、新しい世界像が模索されていた時代であった。

既成の世界像が崩れ」たとは、どういうことであろうか。多くの日本人や一般書は、王朝時代の中国を「儒教の価値観が支配する世界」と表現する。ぼくに言わせれば、その言葉が完全に間違っているとは言えないまでも、因果関係をかなりの程度で誤解している言うべきである。たしかに、男尊女卑、親族のつながりの重要視、厳しい上下関係など、いわゆる儒教的と目される価値観が中国にはあり、今も根強く残る。しかし、それらは儒教が提唱したから広まったのではなく、すでに世の中にあったものを知識人が拾い上げ、体系化したのである。体系化の過程において、庶民が持つ素朴な価値観が、「道」「理」「気」など、彼らの生活からかけ離れた哲学的概念と関係づけられ、人間関係から宇宙全体の成り立ちまでを包括する膨大な哲学的世界観が完成した。その完成がおおよそ12世紀の宋代に起き、以降少なくとも王朝のイデオロギーとしての儒教が安定して奉られようになり、明末まで脈々と続いてきた。

当然ながら、その間、庶民の生活が大きく様変わりした。宋代にも『清明上河図』に描かれたような都市部の繁栄があったが、明代のそれは遥かに範囲が広く、より庶民に浸透したものであった。江戸時代の町人文化をイメージしてもらうとわかりやすいのだが、『金瓶梅』などが描写した猥雑な市井生活に混じって、人々の匂い立つような欲望が渦巻いていた。その状態でなおも儒教イデオロギーを掲げる中央政権、庶民との落差が広がるのも無理のないことであり、まさしく今の中国と瓜二つだ。それを目にした知識人は、これまでと同じ様に庶民の倫理をなんとか儒教の教説に組み込もうと奮闘し、結果王陽明がそれに成功し、燦然と輝く巨星となったが、だからといって庶民の生活が進展しなくなるわけではない。同時代のヨーロッパでは世俗化の動きがあり、その背景のなかで啓蒙思想が起きたが、中国でも同様なことが起きたと言えるだろう。異なるのは、ヨーロッパが宗教から自由になろうとしたのに対し、中国での抵抗の対象が儒教イデオロギーだったということだ。だから李卓吾のように、「今まで信じてきた規範のほうがおかしいのでは?」と感じる人が出てくるのは極めて自然な流れであり、そうした人物も一人や二人ではない。彼らの頭脳と筆から、儒教イデオロギーそのものを揺り動かす思想が生み出されたのである。

李卓吾の場合、その思想とは、「童心」の一言に尽きる。字のごとく、「幼子の心」「赤ん坊の心」の意味だ。劉氏によると

(童心は)文化・教養の「礼」の枠には納まらぬ素朴、粗野が抜けていないからこそ、「礼」の作為の色に染まらない純真さが保てる。それこそ人間存立の根拠であり、自らの生と死の意味を問う哲学の原点である。

だが童心は、人間がこの世界で生きるにつれ、少しずつ失われてしまう。悪いものに接したからではない。長じるにつれ様々なことを見聞きし、道理を知り、書物を読むことで、後天的の学習を通して身につけたこれらを根本的なものと勘違いしてしまうからである。人間の根本はあくまで生まれたままにして備わる童心なのに、それが外から来た規範に覆い隠されてしまう。たとえ童心を死ぬまで保ち続けたとみなされる孔子・孟子のような聖人でも、その著作を聖典のように奉じてはならない。大事なのは彼らの文章を通して流れ出た童心であり、文章それ自体ではないーーと、李卓吾は主張したのである。

同じく心を重要視した王陽明は、修行や学習を重ねることによって自然の心を取り戻せると考え、学ぶことの重要性を否定していない。仏教の禅宗も何より自分の内面を準拠し、仏をも殺せとうそぶくが、それでも座禅のような修行が必要であった。それに対し、李卓吾はすべてを一旦棚上げにする。とにかく童心を保つこと、生まれたまま童心を保ち、いかなる外物の影響をも退け、童心から自然に流れ出た感情を表現すること、これらを何よりも大事にしたのである。

規範を否定・拒絶することは、特に若者には魅力的に映る。だから李卓吾の思想が、明末において異端として否定されたにも関わらず、五四運動のときに再発見され、儒教の伝統を排撃するのに盛んに利用された。だが、プラスの側面だけではない。文化大革命に際しても、理性を喪失した狂乱に根拠を与える言説として、李卓吾は担ぎ出されたのである。確かに人の心は大事である、しかしそこに何らかの枷をはめておかないと暴走してしまうのも人間の心である。そのように考えれば、やはり王陽明のほうが一枚上手だったと言わざるを得ない。

だが、そう言われたところで、李卓吾は痛くも痒くもないだろう。彼はあくまで誠実に明末という時代に向き合い、人々のためらいなく欲望をさらけ出す社会に向き合い、先入観を排して人間を思考したまでである。劉氏の言葉を借りれば、「崇高もあれば、卑劣もある。情愛、信義、中傷、裏切り……庶民日常の悲歓が昨日演じられたごとく今日も行われ、明日も繰り返されていく」のを眺め、その繰り返しに潜む根本的な何かを見つけ出そうとしたのである。その結果として形成された「童心」は、彼一人の才気の賜物ではなく、明代という大木が結んだ危険な香りを放つ果実だと言うべきであろう。

その果実をかじった者はどうなるのか。文化大革命のときに利用されたと書いたが、実は劉岸偉氏も文化大革命中に初めて李卓吾を読んだ。しかし彼は理性を喪失せず、むしろ李卓吾の真意を汲み取り、現代中国を「童心」の視点から眺め直すことができたのである。共産主義か資本主義か、全体主義か民主主義か、左か右かなど、既成の規範に囚われた視点ではなく、そこに暮らす人々の生を、誠実に眺めようとしたのである。劉氏は本書のサブタイトルに「中国にとって思想とは何か」をつけた。結局本文中でこの質問の回答が示されることがなかったが、李卓吾の姿から自ずと答えが浮かび上がってくるだろう。

中国にとって思想とは、社会にはびこるしがらみに楔を打ち込み、それを打ち壊す可能性を秘めた、危うくも魅力的な力だったのである。

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