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赤門志異(ワーキングプア、その3)

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再び田山先輩に会ったのは、あれから1ヶ月後、またもや就職支援課の部屋だった。前回の働きぶりによって、再度型通りの流れ作業に入る権利を手に入れたぼくは、前回同様、残り数名になった時分に、先輩が入室してくるのを目にした。ジャージはワイシャツに変わり、髪はスポーツ刈りにされ、手に持った調査票は、几帳面に三つ折りにされていた。

軽く会釈し、調査票を受け取る。なんだ、就職なんてするもんじゃないと言いながら、結局はやる気を出したのかと、ぼくはほっとしながら、調査票を開いた。だが、そこに書いてある希望職種を読んだ瞬間、ぼくは固まってしまった。「どうしたの?早くブラックボックスに入れな。」おばさんは催促するが、調査票を見せると、ぼく以上に驚き、これでいいのかと先輩に再三確認した。そして、言葉を発さずにただうなずく先輩に呆れ返りながら、しぶしぶ調査票を投入。ブラックボックスはウィーンと唸り、たった10数秒で、「就職できず」と結果をはじき出してきた。

「田山くん、ちょっと待ちなさい。」結果を受け取り、部屋から出ていこうとする先輩を、おばさんは呼び止めた。

「今日という今日は言わせてもらうよ、あんた、本当に就職する気あんのかい?なんだいこのふざけた希望職種は?」
「ふざけていません。それが私の本心です。」直立不動の姿勢でも目立つワイシャツのシワを、なんとか腕で伸ばそうとしながら、先輩は抑揚のない声で返事した。
「本心といってもねえ、常識というものがあるでしょ?なんだい『働かなくても一生遊んで暮らせる仕事』って、あんたどうしたの?そんな仕事あるわけないじゃない!」
「そうはいっても、やってみなければわかりません。現に、天皇ご一家は働かずに私達に養われているじゃないですか。王侯将相いずくんぞ種あらんや、天皇がそうやって暮らせるのなら、なぜ私はだめなんです?日本という国は、私一人も養えないほどに落ちぶれたんですか?」
「また屁理屈をこねて!いいかい?こっちはそんな大きな話をしてるんじゃないのよ!あんたの明日の食い扶持がどうなるのか、その心配をしているの!」

議論は、哲学をやる人間がもっとも得意とするものだが、その議論があまりにも散文的な実生活に関するものとなれば、たちまち苦手分野に変わってしまう。ぼくなら「いや、王侯将相いずくんぞ種あらんやはそういう意味じゃない」と先輩と同じ土俵に上がってしまうが、おばさんはそんなことに構わう素振りさえ見せず、ただ一思いに先輩を引きずり下ろした。返す言葉を持ちあわせていない先輩は、「ご心配、ありがとうございます。私も、もう少し考えてみます」と言って、毅然とした表情で部屋から出ていくのが精一杯だった。

「はあ、まさかこんなことになるとは……昔は普通だったけどね……」おばさんは嘆息しながら、書類を片付けていた。「昔は、学生らしくバイトしたり、就職しようといろいろ情報を集めていたのに、なんでこんなひねくれてしまったんだろうね…」

意気消沈したように見えた先輩が、その日の夜のパーティに来るかどうか心配だったが、ぼくが会場に入った瞬間、食事を頬張っているしわくちゃワイシャツの後ろ姿が見えたので、ひとまず安心した。ウーロン茶を2つ手に持ち、先輩に1つ差し出すと、どんぐりをいっぱいに口に詰めたリスのような顔をした先輩が、ゴクゴクと飲み干し、またガツガツ食べ始めた。

「すごい食べっぷりですね。」
「うむ、これがラストだからな。腹いっぱい食べないと。」

食事で声がもごもごしていたが、どうにか聞き取れた言葉は、たしかに「ラスト」と言っていた。そうか、とうとう博士課程のタイムリミットが来たのか。そう察したぼくは、先輩が食べる横でワインを啜るようにウーロン茶を小口で飲み、食べ終わるのを待って聞いた。

「それなら、これからどうします?」
「どうもしないさ。結局、俺は人間になれなかったということ、諦めて人間以外の道を探すさ。」
「人間になれなかったとは、どういう意味でしょう?」
「いいか、お前も俺も、ここにいるうちは学生だ。『生』のまま、未熟なものなんだ。就職してはじめて『社会人』になる。働いて、給料をもらってようやく、『人』と呼ばれるようになるんだ。それができなけりゃ、一生『人間』にはなれない。俺には、それができなかった。そういうことさ。」

なかなか深い言葉を言っているようだが、ぼくには意味がわからなかった。この前はたしかに、大企業に就職した学生を「人間をやめたがっている」とこき下ろし、その言葉にぼくも内心快哉を叫んだのに、今日は自分の方が人間になれなかったと諦め、やけ食いをする始末だ。そのいい加減さ、変わり身の速さ、自分の将来に対する無責任さに、この大学における自身の数年後を姿を見たぼくは、急に怒りが沸き起こり、再び食べ始めた先輩に向かって言った。

「なんで先輩は、いつもいつもこんな観念的なことばかり言っているんですか?明日の自分がどうなるのか、そのことを考えてみたことはないんですか?そりゃ哲学は立派ですよ、哲学で博論書いて提出できる先輩も立派ですよ。でもね、その哲学も、実生活のなかで揉まれた自分の思考とすり合わせなきゃ、ただの机上の空論、灰色の理論でしかないじゃないですか?」

ぼくは、先輩の反論を待った。先輩が就職を批判したように激高するのなら、口論になってもいいという覚悟さえできていた。だが、背を向けた先輩は、皿に山盛りになった食事を平らげるまで、とうとう一言も発さず、しびれを切らしたぼくがため息をついてから、ようやくポツリと言った。

「正しい。キミの言葉は、まったくもって正しい、人間の言葉としてなら、ね。」

そういってから先輩は、ますます意味がわからなくなるぼくの方を振り向こうともせず、スタスタとパーティ会場を出ていった。

それからというもの、先輩の姿を見ることはなくなった。ラストの言葉の通り、就職支援課には来ず、博士がよく出没するはずの図書館にもいない。おばさんは何度か電話を入れてみたが、いずれも3コールで留守電に切り替わり、おばさんが「まったくもう!」と切っていた。それでも気になるので、ぼくはできれば会いたくない指導教員に会いに行き、バイトの報告と先輩の消息を知らないかと尋ねた。

ソルト・ペッパー色の髪のイケメン中年指導教員は、終始こちらに目を向けることなく、ぼくの報告をただ黙って聞いていた。「それで、先輩がどこにいるのか、先生はご存知でしょうか」という言葉にも、腕組みをするだけで、一向に答えてくれる様子はない。

「あのー、先生、いかがでしょうか…」恐る恐る答えを催促すると、指導教員はやっと顔を上げて、言った。

「田山さんの言った言葉、キミはどう思うの?」
「えっ?人間がどうのこうの、ですか?」
「そう、それ。どう思う?」
「深いなと思う一方で、よくわかりません。なんというか、哲学的で…」
「哲学的ねえ……案外そうじゃないかもしれないよ。あの言葉が、実は字面通りの意味かもしれないと、考えてみたことある?」
「字面通り?どういうことでしょうか。」
「田山さんは、本当に人間ではない。ここに来たのは、人間になろうとしたため。でも彼にはそれができなかった。それで絶望してどこかへ消えたのさ。」
「先生、なに言ってるんですか?人間ではないって。意味がわかりません。」
「いや、そのままの意味だよ。人間ではない。おばけか、ゾンビか、狼男か。それとも天使か、神か、魔法使いか。私にもよくわからないが、そういう人間ではない存在が、この本駒大にはたくさんいるよ。知らなかったの?」
「知らないですよ!先生しっかりしてくださいよ!本気で言ってるんですか?」
「本気だよ。ていうかこれはオリエンテーションのときに言ったはずだよ。ちゃんと聞かないとだめじゃない。あ、そういえば、田山さんと似た人を昨日見たな。」
「本当ですか?どこで?」
「大学の向かいのラーメン屋だ。寸胴を倒して店主に怒られたのを見たよ。うん、考えれば考えるほど、あれは田山さんだな、間違いない。」

そんなわけはない。就職もしたくない、ただ税金で養ってもらいたい人間がーーいや、人間ではないかもしれないがーーこんなアルバイトに応募するとは思えなかった。そう伝えると、指導教員は再び腕組みをし、はじめてぼくの目を見て、言った。

「でもね、キミ、人間になれなくて、本駒大を出たヤツは、もうそうするしか道はないんだよ。あれはラーメン屋のバイトだけど、学生のバイトとはまた違うんだ。あれはな、『ワーキングプア』という、漢字名さえ与えてもらえない、人間以下の烙印を徹底的に押された存在なんだよ。」

ぼくは、昔は本屋だったという大学向かいのラーメン屋を思い浮かべ、憂鬱な気分になった。

(終)

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