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10月16日、下北沢にて

風が冷たくなってきたので、カーディガンを求め下北沢に来た。緊急事態宣言が明けたせいか、土曜日の下北沢は人でごった返していたけれど、道ゆく人々の表情はどこか幸福そうに見える。僕はコロナ以前の下北沢を知らないけれど、下北沢本来の賑わいが戻ってきたのかもしれないと思うと嬉しかった。でも同時に、閑散とした下北沢を一人でぶらつく不思議な高揚感を、もう味わえないかもしれないことは、どこか寂しくもあった。

南口商店街を道なりに進み、メインストリートから一本外れた通りに入ると、目指していた古着屋についた。ヴィンテージものを扱っている店で、以前もラルフローレンのシャツを購入したことがある。店内にはすでに2、3人の客がいた。誰も彼もが、個性的でありつつ調和のとれた格好をしていて、いちおうオシャレをしているつもりでもどこか芋っぽさの抜けない自分の服装が恥ずかしかった。

しばらくカーディガンを物色していると、どうしても、シンプルで当たり障りのないデザインに惹かれてしまう自分がいた。個性的な服装に憧れつつもいまひとつ殻を破る勇気が出ない。自分の中途半端さが服の選び方にまで滲み出ているような気がした。ならばいっそのこと、胸に大きく「S」と書かれた、主張強めなニットを買ってしまおうかと思ったけれど、結局吹っ切れず、紺とこげ茶のカーディガンを2着持ってレジに向かった。決め手は、今持っている服との合わせやすさだった。だから私服が休日のお父さんみたいって言われるんだ。まだ24なのに。

せっかく下北沢に来たので、いつもの古本屋でボードレールの「悪の華」とテリー・イーグルトンの「文学とは何か」を購入した。本で溢れたその空間にいるだけで、不思議と落ち着くことができた。そのまま古本屋の隣のカフェで夕食をとり、下北沢駅までの道を歩いた。道路沿いにある酒場も賑わいを取り戻しつつある。友人と、恋人と、誰もが何かを楽しそうに語り合っている様子を眺めながら、歩を進める。

ふと、こんな考えが浮かんだ。どうして彼らには、当たり前のように友達や恋人がいるのだろう。どうして僕の周りにいる人達は、いつも気づいたら居なくなってしまうのだろう。誰もが当たり前に持ちあわせている、人として基本的な何かが、僕には欠けているのかもしれない。

下北沢駅の改札を抜け、長い長いエスカレーターに揺られながら、この気分が去るのを待った。何かが欠けているのかもしれない。何かってなんだよ。こう考えるとキリがなくて、他の新しい感情で上書きされるのを待つしかない。ああ、古着屋でうんうん唸りながら服を選んでいた時が嘘みたいだ。ちっとも一貫性がない。感情なんてそんなもの、と言えばそれまでだけど、いい加減どうにかならないか。いや、多分どうにもならない。だからこそ人間は面白いのです。と言い聞かせていたら、ちょっと元気が出た。


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