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聖書の神様との出会いー証まとめ

色々とブログを更新していましたが、まとまった話ではなかったので、バプテスマ式の時用に作成していた証(総集編)を残します。

長いので読まなくても大丈夫です。笑

私が「聖書」を勉強するきっかけになったのは、2022年の11月の出来事でした。

愛の渇望


私はずっと「愛」について考えては、答えが見出せず、でも「愛」を求めて生きていたと思います。幼少期から私は周りと違っていました。父はおらず、姉とはまた父が違うという複雑な家庭環境でした。母は一人で私たち姉妹を育ててくれました。仕事を掛け持ちして働いてくれていたので、学校行事の遠足や、運動会などのイベント、テニスの試合などは周りの友達と違って一人ぼっちであったため寂しい気持ち、また家族がいないことにすごくコンプレックスを感じていました。母は私のために、たくさん働いて、たくさん習い事をさせてくれました。そのため、勉強や習い事は一生懸命取り組むようになっていました。そんな中、小学校4年生の時に、母が病気になってしまい、働けなくなり、車もなくなり、周りの子達との違いより一層感じるようになりました。友達に「家族」の話をすることが怖くて、恥ずかしく、一切話さないようにしていました。

そのようなことから、大人になるにつれ、「愛」とは何か、愛を渇望するようになっていました。

社会への違和感



小学校入学後から、学校の決められた「ルール」に違和感を感じることが多々ありました。先生に理由を聞いても「ルールはルール」と何度も言われました。納得できる回答が貰えた記憶はありませんでした。また周りの生徒と少しでも異なることがあれば、他生徒から指摘されることもたくさんありました。ランドセルの色が違うこと、習い事のためにチャイムが鳴ったらすぐに帰ること、宿題を休み時間に終わらせること、教科書を持って帰らないこと、などたくさん指摘されました。なんでダメなのかがわかりませんでした。

学校では「なぜだろう」という疑問を持たないように教育されてきたのだということが、大人になるにつれわかってきました。

自然が好きであったので、大学では環境学を専攻していました。漠然と「地球の緑を守りたい」と思っていました。ある時武田邦彦先生のペットボトルリサイクルの闇や、原子力問題、エネルギー関連の本を読んだことがきっかけで、ニュースや学校で習う「地球温暖化」問題について疑問を抱くようになりました。

今社会で良かれと思われている「善」は本当に良いことなのか。私が今まで正しいと思ってきたことが本当に正しいのか、ということを真剣に考えるようになりました。

アメリカに留学した際に、再生エネルギー、クリーンエネルギーよりも、火力発電の方が効率も良くて、燃費も良くて、環境に優しい、というレポートを提出すると、C判定でした。参考文献も載せた上で、教授の価値観で評価されました。

実際に、アメリカでも火力発電は悪で、地球は年々温暖化しているという授業ばかりで、カウンター意見は遮断されていました。学問は、多角的な視点で検討してみることが大事だと思っていましたが、ここで改めて決められた情報を教えられているだけであるのかなと考えるようになりました。

よくよく調べていくと、結局は利権や、何かしらの組織がお金のために、世論や社会情勢を操作しているのだろうと思うようになりました。これを機に、メディアで流れる情報が全く信用ならないもので、嘘ばかりであり、また違和感を感じない人が多いことが悲しくなりました。社会に希望が持てず、自分の考えを言うと批判されることに生きにくさを感じるようになりました。

2020年1月、大学4年であり、シンガポール滞在中に「コロナ」のニュースが流れはじめました。

社会への絶望


2020年1月、シンガポールに滞在中の時にこの感染症のニュースが広がっていきました。第一感染者からその後の様子を見ていましたが、大した病気じゃないから恐れることではない、と早々に思いました。

ですが、日本帰国後、2020年4月から社会人が始まった途端に、過剰な報道により、瞬く間に社会の経済活動が停止しました。私はメディアを信用していない状態であったので、また何かしらの組織による作戦で、みんな騙されているのだと思っていました。ほとんどの人がマスクをし始めました。

私はマスクをするのが本当に嫌でした。衛生的な側面、肌にも良くないですし、人々が表情を失っていくことが悲しかったです。マスクをしないことで、会社の上司や周りの友達にも色々と言われるようになりました。

「モラルがない」「エチケットの問題」「非常識」。

そのため、仕方なく最低限の場所ではマスクしていましたが、強制されることが本当に苦痛でした。その頃から、このような世の中で生きることに希望が見いだせず、支配者層に支配されて生きるしかないことに絶望を感じていました。絶望の中で、現実を忘れるために、私は週末にお酒の場に行くことを楽しみにするようになっていました。

ナイトクラブでは、みんなが生き生きと楽しそうにしていました。私も日常を忘れ、何も考えなくていい、思考停止になれ、気分を高揚させてくれるこの時間が本当に楽しくて、飲みすぎても、また通ってしまっていました。朝日を見るたびに、「自分は何をしているのだろう」、「もうお酒も飲みたくない」と思いますが、社会に希望がないために、どうでもいいやとなっていました。(居酒屋は閉まりますが、クラブは朝まで営業していました)


2021年ごろから、ワクチン接種が開始されました。その前から、SNSでコロナ問題について呟くと、一部の友達から「非常識だ」という返信が来るようになり、アカウントを削除していたため、ワクチンに関しての違和感は友達に伝えることができませんでした。

たまに会う友達との対面での会話の際に、「ワクチン打った?」「早く打ちたいよね」と言った会話を聞いては、心が苦しいながらも、自分の意見を言うべきでないと思い、素直に回答できない、本心で会話ができない状態になっていました。

ワクチン接種の社会の流れを機に、大多数の人と意見が合わず、2人の友人以外は本心で語れる人が周りにいなくなっていました。自分の意見を言うと嫌われてしまうという気持ちです。ワクチンやマスクのことを考えずにいたいのに、心が苦しく、調べれば調べるほど、メディアが煽れば煽るほど、絶望が加速してきました。

また、先に述べたように生きる意味がわからないということは「愛」を知らないからだと思い、パートナーがいれば、その愛は満足できると思い、合コンや知り合いの飲み会にも積極的に参加していました。

ですが、この「社会の違和感」を払拭できないせいで、誰と話しても、うわべだけの会話しか成り立たず、本心も言えないもどかしさで上手くいきませんでした。

この社会で価値観を合う人を探し出すことは困難であると思いつつ、「愛」とは何かを求め続けていました。お酒も飲みすぎる日々、クラブ通いもやめられず、気づけば社会人3年と半年経っていました。自分はこの3年間何も成長していない上に、周りの人たちの隔たりを生み出し、生きる意味もわからず、何をしているのか、全くわかりませんでした。

いい加減にしなければ、と思い、改めてワクチンを打っていないパートナーを探そう、と思い、2022年の10月ごろにマッチングアプリを始めました。

プロフィールに、ワクチンを打っていない人、という明記し、その条件で探しました。すると、私が思っていたより、多くの人が似たような考えである人がいました。

とりあえず、一番に会おうと言ってくれた方と10月末に会うことになりました。今まで自分が感じていた社会への違和感、周りに話せる人がいないこと、どれもこれも話があって、本当に驚きと嬉しさがありました。

私は彼に、「この違和感やどうしようもなさ」「何か悪い支配者層がいると思うが、それがわからないこと」「それ以上知っても絶望が増すだけだろう」といった話をしました。そこで、彼は言うのを躊躇いながら「実はこの世は聖書で成り立っている」といった内容の話を始めました。

「聖書に全部書かれてあるのだよ」と。途中まで話がすごくあったのに、「宗教かあ」と思いました。ですが、話が上手で、説得力のある説明をしてくれたことで、「聖書」というワードを心で遮断することなく帰宅しました。彼自身は、彼の参考にしているインフルエンサー的な人からの影響で勉強を始めていたようですが、教会に行くなどはせず、その人の発信情報をもとに独学しているような感じでした。その初回ご飯以降、オススメの動画や本を共有してくれ、私も喰わず嫌いをせずにまずは聖書の前に彼の教えてくれた資料を見るなどしていました。

事件からの導き


その出会いの週の週末に事件が起こりました。会社の集合研修の後に、同期で飲み会が開催されていました。私も参加していましたが、途中からパッタリと記憶が飛んでおり、気づけば自宅で寝ていました。何も思い出すことができず、記憶と財布が無くなっていました。物をよく無くすため、財布にはGPSを入れていました。GPSは西麻布のクラブにありました。まさかクラブに行っているとは思っていませんでした。同期からタクシーに乗せたという情報だけ入手しましたが、その後一人でクラブに向かっていたようなのです。全く記憶がないので、本当に自分の行動が信じられず、恐ろしさと呆れでいっぱいでした。財布もGPSをつけてはいたものの、現地に向かっても場所を特定できず、見つけることができませんでした。その日に西麻布のクラブに財布を探しにいった帰りに、知らずのうちに墓地の真ん中を歩いていました。怖かったですが、こんな自分が本当に嫌で、愚かで、学習せずに、人に迷惑をかけて生きていることに嫌気がさしました。

財布にはパスポートやキャッシュカード、社員証などすべて入れていたため、困りましたが、まず、自分が生きていることを不思議に思いました。その週に神様の話を聞いていたため、こんなに愚かで危ないことをしているのに、まだ私のことを生かしている神様がいてくれているのかもしれないと思いました。神様が私に最後の忠告として、今回の出来事を通して、伝えてくれているのかもしれない。いい加減にしなさい、と。そこから、聖書を教えてくれた男の子のシェアしてきた動画や、漫画聖書などを読み始めました。今まで自分が探していた「愛」、心の穴がどんどん埋められていき、こんなにどうしようもない愚かな私を神様が見捨てずに生かしてくださっていたのだ、という思いが日に日に強くなり、感動でいっぱいになってきました。自分が今まで感じていた違和感、そして社会との分断も、悪魔の勢力によるもので、ワクチンやマスクに囚われることで、また分断を生んでいたこと。人をジャッジして、壁を作って、絶望して生きるように仕向けられていたこと。色々なピースが一つ一つはまっていき、聖書の神様がいてくれているという事実により、心に平和が生まれてきました。聖書のことをもっと知りたい、と思っている中で、諦めていた財布も1ヶ月後に埼玉の田舎まで移動していて見つかりました。財布なんてもはや何でもいいと思っていましたが、重要な個人情報があったので、見つかって本当に助かりましたし、神様がどこまでも優しく私にまた与えてくださったのだと思いました。

聖書を教えてくれた男の子とはその後も何回かあって話をしていましたが、彼が慕うインフルエンサーの教会に一度一緒に行った際に、奇妙な違和感を感じてしまいました。(教会内でみんなジャンプして歌ったり、あまり健康ではない食べ物を食べていたり)また、その教会ではクリスマスシーズンであったことから、クリスマスのお祝いの準備もしていました。

私もクリスマスは大事なのかなあ、と思っていた時に、SNSでクリスマスは異教からきたもの、であるというSOSTVを紹介しているアカウントから、SOSTVのYouTubeを見るようになりました。(安息日のこと、クリスマスのことで、彼の属する教会の違和感を感じてしまい、結局彼とは連絡は廃れることになりました。)SOSTVを見つけてから、より聖書への理解、研究意欲が高まり、聖書講座を申し込んだことを機にみ言葉教会へ導かれることとなりました。

聖書を知ってからの変化


聖書を知って、神様を知るにつれ、自分のどうしようもなかったお酒の問題や、悪習慣を手放すことができました。人をジャッジしたり、自分の正義を押し付けたりすることをやめたい、と心から願うことできるようになりました。そして、今まで不平不満、絶望に満ちていたことが、恵みの感謝と希望の喜びでいっぱいになっていきました。

ルカの福音書の6章41なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 42自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。
私は批判ばかりして、自分の悪いところに目を向けずに、傲慢に生きていました。神様の光が、私の汚れをすべて浮き彫りにしてくださりました。
神様を知ってから、家族へのコンプレックスが感謝の気持ちに変わりました。育ててくれた母、支えてくれていた周りの人たちへ感謝しかないことにやっと気づけました。本当に聖書の言葉が私を日々変えてくれました。「自分」が生きていることの奇跡、ここまで恵まれた状態にいることがどれだけの「恵み」なのか思い知りました。

神様はずっと私のことを守ってくれていました。私たちに「愛」と「希望」を与え続けてくれていたこと。聖書の神様がはじめであり、おわりであり、神様のご計画の中にこの世が存在していること。
自分がいかに恵まれているかを知ってから、自分の今までの周りの人への言動や行動の失礼さを痛感しました。周りの兄弟たちを心から愛して、思いやりと親切を持って、彼らのために生きること。神様の御心に従って、神様が望む働きをすることが私の幸せであり、「生きる」とは自分のためではなく、神様の品性を持って、周りの人、困っている人たちのために働くこと。

この終わりの時代だからこそ、絶望して投げやりに過ごすのではなく、毎日一生懸命「愛」をたくさんの人に振り前いて、過ごすことが大事であり、自分中心主義だといつまでも真の幸せは得られないこと。

神様、ずっとずっと私のことを愛し、恵みつづけてくださり、本当に感謝です。私が頂いているこの恵と愛、そして命を大切にして、神様が愛する他の兄弟たちに愛を持って接しられますように。

罪に打ち勝ち、日々喜び、神様を賛美し、周りの人たちにも愛を与えつづけられますように。


私たちに残された時間は残りわずかです。
ぜひ一緒に聖書の勉強をしましょう☺️

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