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「やさしい」は「誰」のためか

昨日から初めてのことをスタートした。

まだ終わっていないので、詳細は書かないでおくけれど
とてもいい時間を、自分で選んで過ごすことにした。
あるスクールで、ある学びを始めたのだ。

その第一回目を終えて、昨日感じたこと。
それは「じぶん」の外側にいる人たちを
ちゃんと認識して、ちゃんと慮って
さまざまなことを見たり聞いたり行動したり
してみよう、ということ。

この書き方だけでは抽象的すぎるが、
「じぶん」と「だれか」をちゃんと感じて
考えて考えて、生きていなかったな、という感覚になった。

人は一人では生きられない。
それは理屈ではわかっているけど、
ひとりという感覚で、
自分を捉えることって日常生活だとあまりない。

孤独、とも違って、「ひとりの人」として考えるとき
「じぶん」はそこには数えられていないな、と気付いた。

そして、仕事上で「誰か」を想像するとき
はなからそれは「じぶん以外」だと決め切っていたけれど
それは違っていた、とも気付いた。

なんだか曖昧な表現ばかりで伝わらないかもしれない。
これは今「誰か」を考えずに、「じぶん」の頭の整理としてだけ
書いているから起こることなんだなあ。

どんな仕事にも、
「じぶん」と「誰か」が存在し、
その間に「じぶんに近い人」「誰かに近い人」がいて
その円は交わっている。

誰かのためにできたサービスも
本当にその誰かのためになっているのかは
その人にしかわからない。

けれど、できる限りその「誰か」のために
やさしくしようとするとき
もしかしたら「じぶん」は無理をしているかもしれない。
「じぶん」の方がやさしさを欲しがっているかもしれない。
それでは、「誰のためのやさしさなの?」という状況になってしまう
ということを学びの中で感じた。

まだまだ始まったばかりの学びだが
すでにじぶんの中が深く掘り起こされ始めているよう。
そして
小さな「これってなんだろう?」に目が行き始めているような気がする。

“「やさしい方」のじぶんになる講座”

これからの学びがますます楽しみだ。

ある日のゆうやけ。やさしいいろ。



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