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天皇だけが知る『古事記』冒頭の意味(現代語訳『古事記』では分からないこと 9)

■『古事記』冒頭の意味不明さ

原文(書き下し文)を読むと明らかなのだが、『古事記』は、冒頭すなわち書き出しの天地初発から、伊耶那岐命いざなきのみこと伊耶那美命いざなみのみことの二神の誕生までの部分だけが、以降の全体の文章とは異なったトーンで書かれている。

我々がよく知る『古事記』は、イザナキ・イザナミの天降あまくだりの場面からだが、詳細な意味はともかく、現代人の我々が読んでも、だいたいの意味を知ることができる。

ここに、あまつ神もろもろみことちて、伊耶那岐命いざなきのみこと伊耶那美命いざなみのみことニ柱ふたはしらの神に、「のただよへる国を修理おさめ固め成せ」とらし、あめの沼矛ぬぼこたまひて、言依ことよさしたまひき。

『古事記』修訂版(西宮一民編・おうふう)より

上記の大意は、複数の天つ神が、イザナキ・イザナミに、ただよえる国をおさめ固め成せと命じて、あめの沼矛ぬぼこを渡して言依ことよした(委任した)、である。

修理おさめ」や「言依ことよさし」など、ところどころ馴染みのない言葉が出てくるものの、天つ神がイザナキ・イザナミに天沼矛あめのぬぼこを渡して未完成な国を完成させよと命じたくらいの意味は知ることができる。

これに対し、冒頭部分は、ほぼ神名の列挙であり、神々が次々に誕生したこと以外、読んでもその意味がよくわからない。

天地あめつち初めてあらはしし時、高天原たかあまのはらに成りませる神の名は、天之御中主神アメノミナカヌシのカミ
次に、高御産巣日神タカミムスヒのカミ
次に、神産巣日神カミムスヒのカミ
この三柱みはしらの神は、独神ひとりがみと成り、まして、身を隠したまひき。

次に、国稚わかく浮けるあぶらの如くしてクラゲなすただよへる時、葦牙あしかびの如く萌えあがれる物にりて成りませる神の名は、宇摩志阿斯可備比古遅神ウマシアシカビヒコヂのカミ
次に、天之常立神アメノトコタチのカミ
この二柱ふたはしらの神も、独神ひとりがみと成り、まして、身を隠したまひき。

上のくだり五柱いつはしらの神は、別天神ことあまつかみ

次に成りませる神の名は、国之常立神クニノトコタチのカミ
次に、豊雲野神トヨクモノのカミ
この二柱ふたはしらの神も、独神ひとりがみと成り、まして、身を隠したまひき。
(後略)

『古事記』修訂版(西宮一民編・おうふう)から一部著者修正

次から次へと神々が誕生し、身を隠したらしいことは分かっても、その「身を隠し」を現代語的に姿を隠したと解釈して良いのか不明であるし、それが何を意味するのかはさらに不明である。
また、独神ひとりがみとなったことが何を意味するのかも普通に読んだだけでは分からない。

このように、『古事記』の冒頭の文章は、ほぼ神名の羅列に終始しているため、多く登場する神々が、何をしたのか、なぜその順番に登場したのかなど、意味がわからず、わざと説明を省いているように見える。

『古事記』には、他にもいくつか神名の羅列が続く箇所があるが、それらと比べても冒頭部分は、分かりにくさの点で突出している(*1)。

これが冒頭の文章であることを考えると、大変奇妙なことである。

通常、書の古今東西を問わず、文章の冒頭は以降の話の導入のために分かりやすく書かれる。読み始めが分かりにくければ、物語に入りにくいからだ。

ところが『古事記』は、そのような構造になっていないため、そっけない記述の冒頭は読み飛ばしがちになる。イザナキ・イザナミの天降あまくだりのシーン以前のエピソードがほとんど知られていないのは、これが原因である。

書こうと思えば普通に書けるものを、あえて聞いても分からないように書き、まるで、読み飛ばされることを狙っているかのようにも思える。

これが、天皇に献上されているということは、聞いても分からないように書かかれたものが、天皇(*2)の意に即していることを示している。

つまり、『古事記』の冒頭部分は、天皇だけが、意味を知っている、ないしは意味を知ることができるものとなっていると考えられる。


以前に私は、『古事記』の冒頭部分の意味する内容は、制作者の太安万侶おおのやすまろにも秘せられていた可能性について書いた。

もし、冒頭部分の意味内容が、天皇だけに開示されているのだとしたら、その意味について太安万侶おおのやすまろが知らなくても、それは不自然なことではない。

ただ、なぜ、『古事記』全文ではなく、冒頭部分だけなのだろうか。この、ある意味での中途半端さは、何に由来するのだろうか


■独占と継承

『古事記』は聖典であり、聖典は、聖なる力の源泉である。天武天皇は、その力を、意中の後代の天皇だけに伝えたいと考えたはずである。

ところが、『古事記』が書物であったら、聖なる力の独占と継承は両立が難しい。文字は、継承には最適だが、独占には最悪なツールだからだ。

文字と口承とは、利点と欠点とが正反対の関係にある。

文字は、書き手が死んでもそのまま正確に伝承を残すことができる。逆に、口承では、伝え手が死んだら伝言ゲームになることを覚悟しなければならない。

一方、口承では、特定の人物にのみ内容を伝えることができる。逆に、書かれたものは、読める人には等しくその内容が伝わってしまうため、独占させることができない。

この矛盾する独占と継承を両立するための工夫が、『古事記』の冒頭の記述なのではないか。


■圧縮データとしての『古事記』冒頭

『古事記』冒頭の神名を並べただけの簡潔さは、今でいうテキストデータの圧縮のような働きをしている可能性がある。
圧縮されたテキスト情報は、圧縮のアルゴリズム(どのように圧縮したかの手順)があれば、それを解凍する(もとどおりの意味がとおる状態にする)ことができる。

ただ読んだだけでは、意味のわからない簡潔すぎる記述(たった233文字に17柱もの神々が登場する)を知るためのアルゴリズムを、もしくは意味そのものを、自分の意中の後継者にのみ伝えることができれば、継承と独占とを文字によって両立することができる。

冒頭部分は連続ドラマのシーズン1のようなもので、全体の基調を支配する。シーズン1によってシーズン2以降の意味ががらりと変わってしまうこともあり得る。だからこそ、『古事記』は、圧縮部分を冒頭のみにとどめ、イザナキ・イザナミの国生み以降の部分は、読んだ者が誰でも等しく意味がとれるようになっているのではないか。ただ読んだだけでは真の意味は伝わらないとの自信のもとに。

そして、それが圧縮であると読んだ者に気付かれないために、冒頭部分は暗号と言えるまでには、意味不明なものにはなっていない。絶妙なさじ加減である。そんな工夫が『古事記』には施されているのではないか(*3)。

あえて「序」に本文(冒頭部分)とは異なる解説が記されているのは、太安万侶おおのやすまろにも全ての内容(*4)を知られずに『古事記』が完成した証拠であると共に、天皇がそれを良しとした証拠にもなっていると言えるのではないだろうか。

では、どのようにして天皇だけが冒頭の部分の意味を独占することできるのか。そのヒントは序の稗田阿礼ひえだのあれに関する記述部分にある。

これについては、次回書く。


◎註釈

*1 例えば、イザナキ・イザナミの国生みの後の神生みのシーンで神名の羅列があるが、こちらは海の神、風の神、山の神、野の神といった属性が記されており、分かりやすい。
最後に生まれた火の神をイザナキが斬る場面でも、それによって生成された神々の神名の羅列があるが、こちらは斬った刀のどこに神が生じたかが記されていて情景が目に浮かぶ。
その他の神名の羅列は、系譜を示すもので、羅列されていることが系譜を示しているのでこれもわかりやすい。
つまりどの神名の羅列も、読めば分かるものになっている。

*2 ここで言う天皇は『古事記』のプロジェクトを始めた天武天皇ではなくプロジェクトを完成させた元明天皇である。元明天皇については次の次の回に書く。

*3 圧縮ファイルは復号されなければ、意味を成さない。冒頭の神々は、呼称や様態にずれがある。このずれが復号キーならば、我々もその圧縮を解くことが可能である。

*4 『古事記』冒頭の内容については、一度通しで書いている。力が入りすぎて、長文で分かりにくい箇所も多かったため、今回のこの連載では、もう少しわかりやすく書いてみたい。

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