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『ゴジラ-1.0』(2023年)のヒロインが無双な件

『ゴジラ-1.0』を映画館に観に行ってきました。『シン・ゴジラ』というか庵野監督を意識したとおぼしきシーンが印象に残りました。

以下、ネタバレありです。


■ヒロインはなぜこんなにも強いのか

この映画を見終わって、最も印象に残ったのは、浜辺美波(もちろん浜辺が演じる大石典子のこと)の強さだった。

縁もゆかりもない子どもを引き受け、男の家に転がり込み、死を安易な解決として否定し、「生きろ」と男・神木隆之介(が演じる敷島浩一)を叱咤し、パンパンになれという安易な言葉を拒絶し銀座でOLの仕事を見つける。

ガツガツせずとも自然体で生に前向きな浜辺美波。 精神的にこのヒロインはとても強い。

しかも、強さはそれだけに終わらない。

乗っている電車をゴジラに食われ、懸垂で食い下がる浜辺美波。
下に海を確認して手を離してダイブし、かなりの高さから海中に落下しても陸に上がって平然と道にあらわれる浜辺美波。
爆風で飛ばされ死んだかと思いきや、神木隆之介の前に再び現れる浜辺美波。
生に前向きというより、生そのものが浜辺美波なのだ。


■ゴジラvs浜辺美波

まるでマーベルヒーロー/ヒロインばりの無双ぶりに、ゴジラとの対比の図式が脳裏をよぎる。

今回のゴジラは、太平洋戦争で意味を見出せずに死に至ったたくさんの日本兵を象徴している(劇中、こっちの世界に来いと神木隆之介を呼ぶ存在として語られるシーンがある)。

死の象徴ゴジラ vs 生の象徴浜辺美波

この映画が描きたかったことは、きっとそうではないのだろうが、印象としては圧倒的にこの図式なのだ。


■戦争というマチズモ

男は死の物語に惹かれ、絡め取られがちな性向を持つ。そしてそれは戦後も変わらない。それを思いとどまらせるのが女という存在である。

このステレオタイプの図式に、何らかの真理はあるのか?

あなたの戦争は終わりましたか」と、復活した浜辺美波は神木隆之介に言う。このシーンは逆説的に、客席の我々がまだ太平洋戦争の戦後処理の影響下にある日々を送っていることを浮かび上がらせる。55年体制は形を変えて健在で、ソ連の脅威だってロシアに名前を変えただけとも言える情勢下に私たちは生きている。

戦争は時代錯誤なマチズモであり、その影響下の日々が続いているが故に、死の象徴ゴジラ vs 生の象徴浜辺美波の図式は成立し、ゴジラは死なない。

死の象徴が死ねずにいるのが戦争の主体たる国家の宿痾(戦争は原理的に国家のものである)であり、その構造が生の象徴としての女という凡庸を量産し続ける。

良い映画は、意図せず時代を映し出す。その意味で本作は良作と言える。


■なぜ綾波レイの姿になったのか

さて、前日譚は、初代ゴジラがあってこそ機能する。ゴジラは殺しても死なないことが、本作ではタイトルの時点で運命づけられている。

それは「ゴジラ-1.0」という時代設定の必然であると共に、そのような設定のゴジラ映画が、令和の新作として創られてしまうこの国の、そして世界の現状を表しているのではないだろうか。

そんな妄想を、浜辺美波がまるで綾波レイのような包帯姿で病院に復活したのを見たときに抱いてしまった。シン・ヱヴァで、綾波レイは量産型であることが明らかになったが故に。

シン・ゴジラの後に、綾波レイを登場させた「ゴジラ-1.0」。それは、庵野監督へのオマージュを超えて、今も国家にマチズモが健在であることを浮かび上がらせてしまった。

そんなことを考えた。

追。吉岡秀隆安藤サクラのキャスティングは、昭和を令和につなぐのにふさわしい人物造形を促し、凄く良かったと思う。

(2023年、劇場公開時の感想)

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