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なぜ、『古事記』は天武天皇の逝去後に放置されたのか(現代語訳『古事記』では分からないこと 8)


■放置された『古事記』

天武天皇によって681年に開始された『古事記』のプロジェクトは、天武天皇の逝去によって686年に中断し、元明天皇によって25年後の711年に再開される。

元明天皇によって再開された『古事記』は、わずか四ヶ月で完成している。たったの四ヶ月で完成できる『古事記』が、元明天皇に至るまで完成しなかったことは、その間に『古事記』が放置されていたことを意味する。

これはなぜなのか。

↑クリックで拡大(前回の図を再掲)

『古事記』は、天武天皇が大津皇子の即位を期待し、継承するために作られたと書いた。天武天皇存命中の『古事記』は、あくまで天武天皇の私的プロジェクトであり、文字化されてはいないため、その完全な内容については、稗田阿礼ひえだのあれだけが知るところであった。

完成した『古事記』からは、『古事記』が聖典として作られたことは明らかであり、天武天皇は、だからこそ意中の後継者にのみにその内容を伝えるべく、存命中に『古事記』を完成させることはなかったと考えられる。ここまでが前回の内容である。

それほどの『古事記』を、なぜ、天武天皇の次に天皇となった持統天皇は、完成させ、草壁皇子に継承させなかったのだろうか。

身も蓋もない言い方をすれば、持統天皇は『古事記』の中身に興味がなかったのではないか。

それを説明するためには、当時の東アジアの国際情勢の説明から始める必要がある。


■『古事記』プロジェクト直前の東アジアの国際情勢

四世紀半ば頃より、朝鮮半島は、北の高句麗、東の新羅、西の百済が抗争する三国時代が続いていた。

唐は645年以降、3度にわたり高句麗に遠征しているがいずれも高句麗に撃退されている。特に、3度目の唐の高句麗遠征は新羅からの要請によるものであった。

大海人皇子(後の天武天皇)が19歳の時、唐では高宗が即位する(649年)。高宗時代の唐は、高句麗を滅ぼす手段として、660年に新羅と共に百済に侵攻しこれを滅亡させている。

その後、百済の残党が日本に援軍を求めると、即位以前の天智天皇がこれに応じ、663年には2万7千人もの大軍を派兵する。これに対し唐も対抗して7千人の援軍を新羅に送り、百済・日本連合は、新羅・唐連合に大敗してしまう。

これが有名な白村江の戦いであり、新羅・唐連合は668年に高句麗を滅亡させている。その後、新羅は、676年に朝鮮半島から唐の勢力を一掃し、朝鮮半島を完全に統一した。

白村江の戦い以降、天智天皇治世下の日本は、新羅や唐からの侵攻に備えて、防人さきもりを置くなど国の守りを固める一方、戸籍の整備など律令国家化を進めているが、その最中に天智天皇が逝去し、672年に壬申の乱が生じ、天武天皇に政権が交代している。天武天皇政権にとっても国力強化のための律令制度の整備は重要施策として継続される。

これが、『古事記』のプロジェクトが開始される直前の東アジアの国際情勢である。

大国との戦争で大敗したことにより、戦勝国の制度を取り入れて国力の強化を図るという点で、白村江の戦い後の日本の律令国家化と、太平洋戦争後の日本の民主主義国家化は、構造を一にしている。

大国の制度を取り入れようとする際には、全面的に受け入れようとするのか、和魂洋才のように外面だけ取り入れようとするのかで、路線が分かれる。

天武天皇は、後者に位置づけられる。

朝鮮半島を統一した新羅の都である慶州では、世界遺産にも認定されている石窟庵ソックラム仏国寺プルグッサに代表されるように仏教文化が興隆したことで知られる。当時、仏教もまた、律令制度とともに、戦勝国の文化を象徴するものであった

天武天皇にとっては、どちらも国際社会の要請という外面的な対応の対象なのである。


■律令国家と神道の転換

天武天皇は、神道と仏教の双方を推進したことで知られているが、仏教はあくまで国家の利益を目的としたものに位置づけられている。

降雨や除病のための読経等による加持祈祷が国家の要請で行われるなど、国家に対する現世利益的な期待が仏教に対してあり、僧尼・寺院に対する国家的な優遇処置が図られた一方、その範囲を超えないよう僧尼・寺院に対する国家的な規制処置も厳しく行われている。仏教は律令制度の下、国家に受容されているのである。

これに対し、天武天皇時代の神道は律令体制に組み込まれていない。

天武天皇は、伊勢神宮の遷宮を考案し、広瀬・龍田祭を天皇が祭祀を行う親祭として執り行うなど、神祇の祭祀権の天皇への集中化をすすめたが、天皇が直接に地方の神々を祭祀する体制は、官僚を通して地域を治める律令体制とは相容れない。

この体制が転換されるのは、天武天皇の逝去後の持統天皇の時代である(*1)。持統天皇は地方の諸神社の祭祀を天皇が行わずすべて神祇官に委ねる国家祭祀体制を確立させて天神地祇を天皇の祭祀の対象から格下げし、その体制は持統主導のもと、文武天皇の代に大宝令として明文化された。

歴史家はこの転換を律令制度の発展段階として説明するが、天武天皇と持統天皇では、神々に対する宗教観が異なっていたことは明らかである。


『古事記』の「序」の記述にジュリアン・ジェインズを援用して、天武天皇が二分心で神の声を聞いていた可能性が高いことを示したが、天武天皇にとっては、神は内なる存在であり、天皇は地方の神々を祭祀する存在である。神祇の祭祀権の天皇への集中化は、地域の神々への天皇からの奉祀であり、支配とは逆のベクトルが働いている。

律令体制に神道を組み込むことは、そのベクトルを逆転し、地方の神々を国家に隷属させることであり、天武天皇に許容できるはずもない。

律令国家体制の確立においては、同志の関係の天武天皇と持統天皇であるが、律令国家体制に神々をも組み込むことをもいとわない妻の鵜野讃良うののさらら(持統)とは、宗教観では呉越同舟の関係にあったと考えられる。

680年に鵜野讃良うののさらら(持統)が病に伏したとき、天武天皇は病気平癒を願って、仏教寺院である薬師寺の建立を発願している。このことは、天武天皇にとって鵜野讃良うののさらら(持統)が、国家側の存在であったことの現れであるとも言えるのではないか。

一方で、天武天皇が、二分心を持たず神の声を聞くことのない妻の身になって、薬師寺建立の発願をしたのだとしたら、病床の妻にとっては最良の祈願となったはずである(実際、すぐに治っている)。

このような関係であるがゆえ、内面の神の声を自覚している天武天皇にとって、『古事記』が真に意味するところ(*2)は、それを理解しないであろう妻の理解は得られないものとして認識されていたであろう。

持統天皇にとっても、律令国家形成の一環として『日本書紀』が進行中の中で、あえて律令国家推進の役に立ちそうもない夫の私的プロジェクトである『古事記』を完成させてみたいという動機は芽生えようがない。それは、母子二人三脚で政治にあたった草壁皇子と、その息子であり、持統天皇の強い影響下にあった軽皇子にとっても同様である。

かくして、天武天皇の逝去後、未完成の『古事記』は、何年もの間、稗田阿礼ひえだのあれの中に秘蔵されたままになるのである。

さて、『古事記』の「序」には、稗田阿礼ひえだのあれの能力について記されているが、その記述には不可思議な点がある。そしてその点こそが、『古事記』製作の謎を解くピースに思える。これについては次以降に書く。


◎註釈

*1 「古代国家地方祭祀の研究」(佐々田悠)などを参考にした。

*2 『古事記』の冒頭部分の内容については今後書いていく予定だが、待てない向きは、以前に書いたものを参考にしてほしい。

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