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暗号のような『古事記』の冒頭をどう読むか(現代語訳『古事記』では分からないこと 6)


■現代語訳では『古事記』の冒頭は分からない

『古事記』は漢字のみで書かれており、しかも普通の漢文ではないため、専門に研究している人でない限り『古事記』を原文で読むのは非常に難しい。そこで、現代語訳に頼ることになるのだが、そうすると厄介な問題が生じる。

現代語訳のどこからどこまでが原文『古事記』に忠実で、どこからどこまでが訳者の解釈なのか、読み手が判断できないのだ。

いや、そんなのは翻訳書の常で、そんなことを言ったら外国のものはすべて原書で読まなければならなくなってしまうと思われるかもしれない。

だが、『古事記』には、現代語訳だけに頼れない特殊な事情があるのだ。

国家神道以来「記紀神話」として『日本書紀』と併せ読みをする風潮が定着してしまっているために、現代語訳者を含む多くの人に、それが先入観となっている。このため、注意して『古事記』に向き合わないと、『日本書紀』の解釈が『古事記』の解釈の中に、知らず知らずのうちに入り込んでしまうのだ。

『日本書紀』の解釈を無自覚にあてはめた現代語訳『古事記』では、かえって意味を取り違えてしまう。『古事記』の現代語訳は、うのみにできない。

『日本書紀』の天地創成たんである「天地開闢かいびゃく」は、外来(中国由来)の陰陽思想によるもので、『古事記』の天地初発の解釈にあてはめてはいけないことは、本居宣長も指摘するところではあるが(詳しくは以前に書いた←クリック)、天地開闢かいびゃくの時に天之御中主神アメノミナカヌシのカミが誕生したと現代語訳してしまっているものがけっこうある。
訳者のあたまに「記紀神話」が刷り込まれてしまって、『古事記』の記述を見失っているのだ。

このような現代語訳では、読み手は『古事記』を読んでいるつもりで、外来の陰陽思想の天地創成たんを読まされているわけで、ハリウッド映画によくあるアジア系米国人などが日本人を演じる珍妙なシーンを笑えない。


■『古事記』序文の謎

厄介なことに、『日本書紀』の記述を『古事記』にあてはめる間違いが起きる原因は、『古事記』そのものにもある。『古事記』には、本文に付けられた太安万侶おおのやすまろによる「序」があるのだが、そこに本文の要約として「天地あめつち開闢ひらくるより始めて」との記述がある。

太安万侶おおのやすまろの「序」に書かれている『古事記』本文の宇宙(世界)の成り立ちについての記述が、『日本書紀』同様に外来の陰陽思想に基づいていて、本文をミスリードしてしまっている。

「序」の宇宙の成り立ちに関する記述は、『古事記』本文に該当する箇所がなく、『古事記』本文とは論理的に整合しない(*1)ことは、本居宣長の主張だけでなく、現代の学説的にも主流となっている。

そのため一時は、『古事記』が、もしくは『古事記』の序文が、偽書であるとの説まであったが、1979年に太安万侶おおのやすまろの墓誌が発見されたことで太安万侶おおのやすまろの実在が証明され、『古事記』偽書説は沈静化した。

ただし、「序」が本文と整合しないという事実は残る。三浦佑之は、「序」は後年に付け加えられたとの説を主張している(*2)が、編纂者である太安万侶おおのやすまろ自身が、『古事記』本文に書かれている宇宙の成り立ちを理解していなかった可能性がある。『古事記』の冒頭部分の意味する内容は、制作者の太安万侶おおのやすまろにも秘せられていたのではないか。

トンデモに聞こえるかもしれないが、むしろ、この解釈は『古事記』の成り立ちを考えれば、そう考える方が自然と言えるものである。

なぜそう言えるのかについては、次回以降、順を追って書く。


◎註釈

*1 『古事記注解2』(神野志隆光・山口佳紀 編著・1993年・笠間書院)の解説が分かりやすい。

*2 「古事記 「 序 」 を疑う」(三浦佑之『古事記年報 』 第47号 2005年)

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