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「バーベンハイマー」現象 原爆に対する日米の価値観の違い

今回は「バーベンハイマー」現象から考えたことについて話をしてみた。

(以下、だいたいの文字起こしをしたものです)

現在アメリカで、実写映画『Barbie』と 映画『オッペンハイマー』が
同時公開されており、 この2つの映画を同時に観ることを
「バーベンハイマー」と言うそう。

映画『オッペンハイマー』は、
原子爆弾を発明した「原爆の父」 の半生を描いた作品とのこと。
この全く似ていない作品同士をくっつけた言葉が
どうしてできたのかというと
元々は「経済的苦境に立たされている映画館を楽しく応援したい」
というのが目的だったとか。

けれども、ネット上でこのキャンペーンが
とんでもない方向に盛り上がってしまったというのが今回の出来事だった。
バービーとオッペンハイマーの画像を合成した面白ネタ画像、
いわゆるコラ画像が多く出回るようになったしまったのだ。

バービーのテーマカラーであるピンク色のキノコ雲や、
バービーとオッペンハイマーが原爆の爆発を背景にポーズをとっている
という画像に、配給会社が「忘れられない夏になりそう」などと付け加えてその流行を助長するような投稿をしてしまった。

それを受け、日本国内からは「不謹慎だ」という声が上がり
広島の学生団体が抗議の署名を集めるなどして、
後日、配給会社が「不適切」だったと謝罪することになった。

『オッペンハイマー』が日本で公開がされるかは不明だが、
オッペンハイマーはマンハッタン計画で原爆開発を推し進めた一方で
原爆投下後には、核兵器の製造使用拡大に反対した人物でもある。

映画内に被爆地のシーンがないなど
「もう少し踏み込むべき」と批判はあるそうだが、
明確に「反原爆」の作品であるため、
映画のメッセージが、
悪ノリでかき消されてしまったというのは本当に残念なことだと思う。

私はこのことをTVのニュースで見て
開いた口が塞がらないというか、
何とも言えない怒りを感じた。

けれども、どうしてアメリカの人達が
このような反応になってしまうのかということについて
アメリカと日本の原爆に対する考え方の違いについて
岡田斗司夫さんのYouTubeを観てなるほどと思ったことがあった。



参考にした動画はこちら ↓↓

(以下は動画の受け売りです)

アメリカでは第二次世界大戦の原爆は「平和の象徴」なのだそう。
(日本人としては全く信じられない感覚だが)

当時、イタリア、ドイツが降伏した後も
日本はしぶとく戦い続けており、
当時の軍部は16~40歳の男女全員を招集し、
全員討ち死にするまで戦う「1億玉砕計画」を計画していた。

そんな日本を降伏させるために、
アメリカは本土上陸作戦を検討し、
その際、50万人のアメリカ兵が戦死すると試算していたのだそう。
そして、もし本当に実行されていたとしたら、
沖縄と同じような惨状が本州でも起き、
アメリカ兵の数倍の日本人が犠牲になったと予想される。

原爆投下により日本は降伏し、
50万のアメリカ兵の命が助かり、
アメリカの人々とっては
戦地に行っていた自分たちの親、兄弟、夫、恋人、子供が
帰ってくるきかっけになった。

「原爆(atomic)のおかげで平和になったんだ」という認識があり、
アトミック・ダンス、アトミック・カクテル、が流行したり、
戦後のベビーブームで生まれた子供たちが
アトミック・ベビーと呼ばれるなど、一代ブームが起きたのだとか。

一方、被爆国である日本にとっては、
原爆は本当に非人道的な兵器だとしか思えない。
明らかに民間人を大量殺戮する目的だったし、
人体実験をしたかっただけじゃないのかという思いがあるし、
長く後遺症で苦しむ人たちをたくさん生んでしまった。

一方で、
「じゃあ1億玉砕すればよかったのか?」
「そもそも宣戦布告したのはそちらではないか?」
と言われてしまうと何も言えなくなってしまう。

ただ、以前TVで被爆者の方たちが
スミソニアン博物館の別館に展示されている
エノラ・ゲイ(広島に原爆を投下した爆撃機)を
視察される様子を見たことがあった。

そのとき、被爆者の方のお一人が
「あの銀色…怖い」と子供のように震えて泣き崩れておられた。
当時の年齢に一瞬で引き戻されて
恐怖におびえる姿を見て、本当に胸が痛んだ。
当時の恐怖、その後の苦しみは全く癒えていないのだと感じる。

「バーベンハイマー」でネットで盛り上がってる人達だって、
その姿を見てどうでもいいと思う人はいないと思う。
ただ、「考えなくていいもの」に
頭の中で変換されているのではないかと感じた。

映画などのエンタメで、
皆で共通して攻撃していい悪役 として、
旧日本軍 、ナチス、ソ連…
最近だと北の将軍様の国、ピロシキの国などが挙げられる。
これらの悪役は、どれだけ痛めつけたとしても気にしなくていい存在
というように頭の中でいつのまにか変換されているように感じる。

仮面ライダーのショッカー、
暴れん坊将軍で越後屋の護衛をしている人たちなどなど、
エンタメはそれでいいのだろうと思う。
向こうで倒れているショッカーには
故郷に帰りを待つお母さんいるんだとか、
爆発に巻き込まれたあのショッカーには
まだ3人の幼い子供がいるんだとか言われたら、
辛すぎて観ていられないから。

リアルの世界でもそれをやるときがあるというのが
問題だと感じる。ただ、自分も結構やってしまうと感じる。
「自分が正しい、あいつらは間違っている」と言って
「あいつら」とひとくくりにした瞬間に、
一人一人のことを、
同じ痛みを感じ、家族を持ち、悩んだり喜んだりするということ
は考えなくなってしまう。

「あいつら」について知ろうとすること、
「悪役」と思う人の顔をよく見てみることが大事だと感じた。


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