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「猫と話せるようになった男の話」

突然ですが、皆さんは猫と話しができますか。
うちでは3匹の猫を飼っています。今日は、その猫にまつわる話をします。

僕はつい先日まで、「猫と話ができる」ということを信じていませんでした
夫婦で話している時、「今ドラえもん(猫)がこう言っているよ」とか、「おもち(猫)が話しかけてるよ」と言われることがあるのですが、大抵「ホントかなぁ」と思っていました。

確かに、猫がニャーと鳴く。何かを訴えているのかなぁと思うことはある。でも、それがどんな意味なのか、どんなことを言おうとしてるのか、果たして人間に分かるのだろうかと思っていました。
例えば、ニャーと鳴いた猫がゴロンと僕の前で横になった。妻は「お腹を撫でて欲しい、って言ってるんだよ」と言う。確かにお腹を撫でれば気持ち良さそうにしているように見える。
でも、僕は猫語を話せません(と思っていた)。どうして、猫の「言わんとしていること」を「これに違いない」と断定できるだろう。
「ニャーと鳴いてゴロン」というのは、「お腹撫でて」ではなくて、「私を見てくれ、美しい毛並みだろ」という意味かもしれないし、なんなら猫は僕に話しかけてなんかいなくて、「あぁなんだか疲れたぜ、横にでもなるか」と独り事を言っているだけかもしれない。
そもそも、猫は人間の言葉を話さないのだから、人間の言葉で猫の「言わんとしていること」を理解しようとすることは、理にかなっているのだろうか。猫の生きている世界は、人間とは異なる。人間には分からない。分からないことを、分かったつもりになっていいのか、ということですね。

色々それらしいことを言っていますが、つまり僕はこれまで、「猫と話そうとしない人生」を送っていたのです。世話はする。抱っこもする。癒される。でも、本当の意味でコミュニケーションができる相手とは思っていなかった。

そんな僕に、最近、転機が訪れました。転機というと大袈裟に響きますが、僕にとっては間違いなく転機でした。
一週間程前のこと。その日僕は、「猫と話せる」ことを確信したのです。
正確にいうと、「『猫と話せる』と僕は思っていいのだ」そして「そう思った方が世界は面白い」ということを、僕は知りました。経緯は、長くなるので話しません。今から話すのは、じゃあ一体「猫と話せる」とはどういう意味なのか、ということです。

そもそも「話す」とはどういうことでしょうか。
「話す」とは、「言葉を用いて相手と意思の疎通を図ること」を指します。ここでいう「言葉」の定義は難しいですが、思いきって、かなり広い意味で「言葉」を捉えたいと思います。
東北、気仙地方の言葉(ケセン語)に聖書を翻訳した山浦玄嗣さんという医師がいます。彼は、ヨハネによる福音書の冒頭に出てくる「はじめにことばがあった」という謎めいたフレーズを、次のように訳している。「初めに在ったのァ、神さまの思いだった」。「言葉」という意味のギリシャ語を「(神さまの)思い」と訳している。この訳からわかることは、山浦さんにとって「ことば」とはつまり、メッセージ=思いだということです。
「ことば」の本質を抉るような翻訳です。

僕自身の言葉で整理し直すと、「言葉」とは「思い」をのせるための器です。
僕たちは、心のうちに様々な「思い」を抱く。整理されきっていない、感情や思考の渦のようなものです。
僕らはそれを他の人にも届けられるように、「言葉」という器に注ぎ、外へと差し出す。
だから「話す」とは、自分の「思い」を「言葉」という器にのせ、相手に差し出すこと。そして、相手の「思い」がのっかった「言葉」という器を受け取ること。
そう僕は理解しています。

「思い」をのせる器として、「言葉」がある。
ここでの「言葉」は、必ずしも日本語や英語といった「言語」とは限りません。話し言葉とも限らない。手話しかり、ジェスチャーや合図、表情なども、広い意味での「ことば」となりうる。これらは、音声言語(聴覚言語)に対して、視覚言語と言います。例えば、「シー」という身振り。あるいは、手招き。久しぶりに再開した友とのハグ。これらは、いわゆる言語ではありませんが、それと同じか、それ以上のメッセージをともなって相手に届きます。思いを伝えるための、立派な「ことば」です。広い意味での。

ここまでくれば、「猫と話ができる」と僕が思ったという意味も、理解してもらえるかと思います。
猫は、人間の言葉は話さない。猫の世界は、人間には十分に分からない。でも、猫には猫の「思い」がある。猫はその鳴き声を通して、挙動を通して、何かしらの思いを表している。声や動作といった「見える器」の中には、「見えない思い」がのっている。
確かにその思いの大半は、人間は正確には理解できないかもしれない。あるいはそれは、必ずしも僕に向かって発せられているわけではないかもしれない。
でも、僕はそれを、僕宛のメッセージとして受け取ることはできる。分からないなりに、「こういうことを言おうとしているんじゃないか」と想像することができる。そしてやりとりを重ねるなかで、「これは誤解だったな」と認識を修正したり、「やはりこういうことが言いたかったんだね」と確信を持てたりするようになる。それと同時に、猫もまた、私が猫に向けて発信する何かしらの思いを、猫なりのしかたで受け取る。そうした営みがきっと、「話をする」ということなのです。
「話す」とは、誤解の可能性込みで、自分の「思い」を表現し、相手の「思い」に近づこうとすること。そうなのであれば当然、猫とだって話ができる。間違いない

このようなことを考えるうちに、猫に対して「すまない」と思う気持ちが募ってきました。
というのは、思い返せば、僕が「猫と話すことなんてできんの?」と懐疑的だったとき、僕には猫の思いを受け取る用意が全くできていなかったのです。もしかしたら、うちの3匹は、必死で何かを僕に伝えようとしていたかもしれないのに。いや事実、振り返れば、間違いなく何かを伝えようとしていました。

今話していることは、一部の人にとってはナンセンスかもしれません。分かっています。僕が述べた主張が通るかどうかは、「話す」ということばをどう定義するかにかかっている。そして、一般的な意味で「話す」ということばを使うなら、「猫と話しができる」なんてちゃんちゃらおかしい。そう思われる人もいると思う。
ただ、今回僕が痛烈に感じ、共有したいと思ったのは、「話ができない」と思い込むことによって断絶されるコミュニケーションがある、という現実です。
それはつまり、「話しができる」と信じることでしか開かれない関係性が、人間にはあるということを意味します。

なぜ僕は、猫の話をこれほど懸命に語っているんでしょうね。
それは、このことが猫に限った話ではないからです。きっと、僕たちが生きているこの世界には、目に見えない「思い」が溢れている。この世界は、実は僕が受け取り損ねているメッセージで溢れているのかもしれない。
ある歌を引用します。松任谷由実さんの『やさしさに包まれたなら』。ご存知、『魔女の宅急便』の主題歌です。


小さい頃は神さまがいて 毎日愛を届けてくれた 
心の奥にしまい忘れた 大切な箱 ひらくときは今
 
雨上がりの庭で くちなしの香りの やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ


「目にうつる全てのことはメッセージ」
この世界では、様々な「器」にそれぞれの「思い」を入れて、何事かが語られようとしている。
それは目の前の友人がふと漏らしたため息かもしれない。外国人の話す、異国の意味不明なことばかもしれない。聴き慣れた、畜舎の動物の鳴き声かもしれない。あるいは、裏山の木々の眩しいほどの深緑かもしれない。あるいはもしかすると、心のうちに「愛を届けて」くれる、神さまの細き声かもしれない。
僕たちが、「これは言葉とは呼べない」とか、「この相手とは話ができない」と、常識に囚われてスルーしている存在が、何かを僕に届けようとしている。少なくとも、人間にはそのようなメッセージを受け取る力がある。

確かにそれは、誰でも理解できる、誰でも同じように受け取ることのできる言葉ではありません。大嫌いな「あいつ」の流す涙が、どうして誰にとっても同じ意味であり得ましょう。眩しいほどの夕日が、あなたと私にとって、どうして同じ意味になりえるでしょう。「目にうつる全てのこと」の「メッセージ」をどう受け取るかは、私にかかっている。
でも、だからこそ、そこで私が受け取るメッセージは、唯一無二のものとなる。私だけが、私という独自性において聞き取ることのできる、ただ一つのメッセージになりうる。そうやって心の耳を開くとき初めて響く、「話ができるはずのなかった相手」の言葉がある。

僕が聞き取るべきことばを、聞き取れるようになりたい、と思います。


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