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断片的な思考の備忘録と、きらきらしていないほうのプロヴァンスの日常について

フランスにいるといろんな国籍のカップルと話す機会に恵まれるのだけど、アルジェリアにルーツのある女性(ほぼ同い年)と話をした時、彼女の自覚的か無自覚か「男性を立てる」姿勢が言葉の節々に出ていたの、どこか昔の日本のようで、アラブ社会は父権的家族制が根強くあるんだよなあと改めて思い出した。

仕事は生活のためで別に好きでもないという彼女に「この先どんな仕事がしたい?」と聞くと、「わからない。何かの勉強をして専門的な仕事につけたらいいけど、わかんないなあ」という。好きなことはある?と尋ねるも、うーんと曖昧な返事。夫に尽くしたり家を綺麗に保ったりすることがまず第一にあるのかな。

そういうふうに育てられた、それが正しさであり喜びや使命であると捉えている場合、「女性も自由!男性と平等の権利がある!」と言ったところでそれが彼女にとって役に立つメッセージになりうるのか?と考えると、正直よくわからない。

仏語にsoumis(e)という単語があってsous(下)mise(mettre:置くの過去形)の二つの意味から成り立っているのだけど、服従とか従属した状態を表す形容詞で、まさにこの言葉どおりの女性だったように思えた。

家に訪れたとき、わたしを温かく迎え入れてくれてフルーツやお菓子などをふるまい沢山のおもてなしをしてくれようとする姿になんとも愛らしいなと感じ、旦那も同様の思いを抱いていることを願ってやまない。そして彼女が幸せであり続けてくれるといいなと願う。

しかし、女性の権利とはなんなんだろうな。
そう考えてしまうにはあまりにも主語が大きすぎるか。

仕事で関わり始めたのがきっかけで、台湾のことが近頃ずっと念頭にある。

翻ってじぶんが日本に生まれたことの恩恵。国家として認められていることのありがたさ。これは外国に出てからわかること。それでも台湾人の優秀さと女性が活躍できる社会について思いを巡らせて、アジアの中でも特にリベラルな社会である台湾から日本も学ぶ必要がある。

日本はなぜ女性の政治家が少ないのか。優秀な女性は多いはずなのに表舞台に立ちづらい仕組みになっているのはなぜか。伝統的価値観が妨げるのか、フェミニズムという言葉に引っ張られすぎなのか。

台湾から学ぶことは多い。外国にいる台湾人は特にその生き様が素敵。
人生何度でも繰り返せるなら、台湾で生まれた人生を歩んでみたい。

プロヴァンスに暮らして、太陽の日差しを浴びて今はすっかり日焼けもして、ちょっと暑いなと思ったらプールに行ったりカフェに行ったり充実した生活を過ごしている。もちろんきちんと仕事をしている上で遊んでいるわけだけど、いくつか約束事として取り決めたことがあって、それを実践するだけでかなり気持ちも楽だし前向きに生きやすくなった。以下がその決めたこと、いつからだったか今年に入ってからか。

・週末はできる限り仕事をしない
・できないことはひとに頼る(甘える)
・困っていることはひとに相談する
・よっぽどのことがない限り誘いは断らない
・フランスにあるコミュニティを大切にする
・どうしようもできないことを考えすぎない
・まず一度は挑戦してみる
・じぶんを下げるような発言や謙遜をしない
・偶然の出会いや瞬間を楽しむ
・季節のものをきちんと食べる
・すべてのことを決めすぎず柔軟な姿勢でいる
・怒るべきときはちゃんと怒る

フランスでもプロヴァンスという美しい地域で小さいアパートながらもプール付きの家に住んで、ねこがいて、海や湖も近くて自然がいっぱいで、食べ物は美味しい。そんな場所で暮らすわたしのことを嫌う知人はどう思うのだろう?と考えた。わざわざ問うたわけではないので実際のことはわからないけれど、きっと、嫉妬心にかられたり憎らしい感情を抱いているかもしれない、またとてつもなく腹立たしく感じているだろうな。

2015年からフランス語を学び始め、誰一人知り合いのいない国だったこの場所がじぶんの居場所となるまでに一から頑張ってきたんだからC'est pas donnée ça (タダじゃないんやで)という気持ちの一方で。

ほんとに、ほんとーーーにわたしは運がよかった。

そう、運がよかったという言葉に尽きる。運命の流れに乗りそこなうことなく、あの時あの判断をした結果今がある。「タイミングとはその瞬間にしか開いていない扉」とかつてブログで書いたのだが、今同じことをしようとしてもきっと現在の状況とは大きく異なるものになっただろう。

当たり前だけどいやなことはつらつら書かないしわざわざ出さない。
そういえば学生時代にも勝手にライバル心を燃やされて、勝手に嫌われることがあったな。わたしのことを嫌いなひとは、勝手に嫌いになってくれればいい。それまた傲慢なように見えるかもしれないのだけど、目の前にいる大切なひとたちをわたしは大事にしていく。

わたしはわたしの人生を生きる。誰にも主導権は渡さない。
誰にもわたしを傷つけることなどできない。



日本の食料自給率の低さを深刻に捉えている。
先日このニュースを読んで、愕然としてしまった。じぶんたちの食べるものをじぶんたちでまかなえなくなっているという事実の先にある未来とは。

フランスの食料自給率Taux d'autosuffisance alimentaireは100%超え。いつも買い物をすると「élevée en france」とか「fabriqué en france」とか「produits locaux」とかフランスで育てられた・作られたというマークがパッケージに記載されているのがほとんどである。

フランスが農業大国だから、小麦の生産ができる土地だから自給率は高いというものの日本だって1965年には73%の自給率だった。小麦ができないから?でも米は沢山あるから米粉にできる。家畜の餌が粗飼料ととうもろこしや大豆油かすなどを混ぜ合わせた濃厚飼料から合わさっているというが、それを大きく輸入に頼っている。本当に、日本に代替できる飼料はないのだろうか?

中学か高校だったか初めて食料自給率という言葉を知り、30%代であると分かった時には書かれている意味が全くがわからなかった。これだけ海に囲まれ魚が豊富で、山に囲まれて水が美味しい土地があって、野菜だって地域ごとに特色は異なって豊富な食材があるというのに、食卓に並ぶ食事の3〜4割しか日本のものではなく、それ以外はわざわざ遠くの海外からやってきたもの。海を越えて島国にたどり着いたのだ。いただきます、の前に食材たちに「ようここまでたどり着いたね、お疲れさまやでほんまに」とも一声かけてあげたくもなる。

どうにかできないのかな。農家や漁業・畜産業に関わる人たちへの支援、国内生産業に国が補助金を出すとか国内生産・消費を活発にするとか、どうにかできないのだろうか。この飼料じゃないと、この材料じゃないと駄目だ、ではなくて発想を柔軟に、あるものでもっと工夫していけないのだろうか。

プロヴァンスの本当の家庭のラタトゥイユを、長年プロヴァンスに住むフランス人のおばあちゃんに作ってもらった。特別な野菜を使っているわけではなく、季節の旬の素材だけ。なのに目が飛び出るほど美味しい。

食べることは大好き。皆で食べるのはもっと好き。フランスにいて幸せなのは、大人数で食卓を囲ってみんなでああだこうだ言いながら食事を楽しめるところだな。


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