一夫一婦制の素朴な疑問

ここ最近、ドラマでも恋する母たちが放映されるなど

既婚者の恋愛を取り上げるメディアが増えています。

一方で激しい嫌悪感を抱く人もおおく、不倫は激しく叩かれます。

これらは、皆、一夫一婦制が正しいという大前提に立っていますが

この結婚制度は誰が決めたのでしょうか?

そもそも一夫一婦制は、約3割が離婚にいたる現実を考えると、

制度的に破綻していると言わざるをえません。


この日本で一夫一婦の考えがもたらされたのは江戸時代に

キリスト教が伝来した時といわれています。

キリスト教では貞操観念を重要視しており、婚姻の形態は一夫一婦が

基本とされています。

宣教師たちはキリストの教えのひとつとして、一夫一婦を日本に

根付かせようとしましたが、その考えはすぐには広まらなかったのです。

江戸時代には妻の他に妾を囲うことは、上流武士社会や富裕な町人層では

普通に行われていました。

こうしたいわゆる蓄妾制は明治時代に入ってからも続き、

明治3年に制定された「新律綱領」では妻と妾を同等の二親等とする

と定められたのです。

これは妻であれ、妾であれ、女性の権利を同等に守るといった考えに

基づいたものではなく、背景には家制度がありました。

つまり、家を存続させるためには、妾も妻と同等の地位に押し上げ、

跡取りを産んでもらおうという事情があったのですね。

とはいえ、一方では、ヨーロッパの列強に追いつけ追い越せで

国造りに邁進しているおり、一夫多妻は倫理的にどうかと

考える人たちもいて、一夫多妻はやめようという動きも出てきました。

その急先鋒となったのが福沢諭吉や森有礼です。

明治時代に初代文部大臣を務めた森有礼は「妻妾論」で

一夫一婦制や男女同権を説いたことでも知られています。

彼は妻ツネと結婚する際に「契約結婚式」を行いました。

この結婚式でふたりは福沢諭吉を証人とし、3か条にわたる婚姻の約束事を

定めた契約書を交わしたのです。

また、ツネはこの時薄いグレーのドレス姿で結婚式に臨んだといわれ、

これが日本のウエディングドレス第1号といわれています。

ちなみに、この契約結婚はわずか11年で終わりを迎えました。

原因はイギリス赴任中にツネがイギリス人と不貞したと噂されたこと。

ふたりの間に生まれた3番目の子供だけが森家に引き取られていないことか

ら、3番目の子供はイギリス人との子供だとの話も……。

ですが、森本貞子氏の『秋霖譜』によれば、ツネの義弟が明治政府転覆の

クーデターに関わったためというのが、本当の理由のようです。

このような世論もあり、刑法では明治13年に、戸籍法では明治19年に

妾はいなくなりました。

そして、明治31年に民法によって一夫一婦制が確立することとなります。

これによって、それまで伝統的に側室を置いていた皇室でも一夫一婦主義を

とるようになり、大正天皇以降は側室制度も廃止されました。

こうして日本では一夫一婦制が当たり前となっていくのです。

結婚について当たり前と思っていたことでも、歴史を少しひも解いて見る

と、意外にそうではないことがあったりするもの。結婚について思い悩む

時、違った角度から見てみると、新たな見方が生まれてくるかもしれませんね。

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