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【演奏会感想】赤坂離宮エラールピアノ演奏会”幸せな夜のために”

映画や舞台は「劇評」という言葉がありますが、コンサート・演奏会の感想は何というのでしょうか。わからなかったのでとりあえずそのまま「演奏会感想」にします。


赤坂離宮のエラールピアノ演奏会に行ってきた

先日、迎賓館 赤坂離宮の見学に行ってきたという日記を書きました。

なお、館内全館撮影禁止ですが、現在は「花鳥の間」の撮影OK試行期間です。2月20日(火)までなので、ご興味ある方はぜひ!
※人物やアクスタなどの撮影はできません。詳細こちら

昨日は、その赤坂離宮で開催された「エラールピアノ演奏会 幸せな夜のために」に行ってきました。美しい美術に囲まれて、美しいエラールピアノの音色を堪能する、そのタイトルのとおり、ため息が出るほど幸せな夜でした!

このピアノそのものはふだんの公開でも見ることができます。
ピアノだけでなく赤坂離宮全体に言えることですが、「神は細部に宿る」とはこのことだなと思います。こんなに細かく複雑な装飾を目に入るところすべてに美しく施すには、技術を極めた人間が複数で膨大な時間をかけて作り上げなければ実現しません。ここで感じることができる複雑で圧倒的な美は自然のそれに通じるものがあります。赤坂離宮を堪能した後に周囲の現代建築を見ると、シンプルな直線の多さに無機質さ・寂しさを感じてしまうほどです。
帰り道、ふと映画『PERFECT DAYS』を思い出しました。美しい木漏れ日を生み出す木の枝葉は、あれだけの数があるのに一つとして同じものはなく、人間には作ることができないものです。赤坂離宮における美と、この映画で描かれたそれを思いやり、「神は細部に宿る」って本当だなと実感したのでした。

それほどに見た目も美しいエラールピアノの音色。こうした演奏会でないと聞けないので、機会に恵まれて幸運でした。それと知らずに抽選に応募していましたが、12倍近かったそうです。ラッキー!

エラールピアノとは?

「スタインウェイの音色とは全く違いますよね!」
演奏者 ピアニストの槙和馬さんによると、エラール社はモダンピアノの先駆者で、やわらかく繊細でハープのような音色が特徴とのこと。
歴史的にどのようなピアノなのかは、下記に引用します。

◆迎賓館赤坂離宮のエラールピアノ◆
 演奏会で使用するのは、明治39年(1906年)に製造されたエラール社製のグランドピアノです。通常、ピアノの鍵盤は88鍵ですが、このピアノは90鍵ある珍しいものです。また、特別な装飾が施されており、皇室を表す菊の御紋も描かれています。
 迎賓館赤坂離宮は、明治42年(1909年)に東宮御所として建設されました。エラールピアノは、東宮御所の造営時、「羽衣の間」に置くために購入されました。
 後の昭和天皇が大正12年(1923年)から約5年間、後の香淳皇后との新婚時代を含めて当館にお住まいになられた際、香淳皇后がこのピアノを演奏されました。また、戦後このピアノが皇居に置かれた際には、皇室の方々も演奏されました。
 その後、昭和49年(1974年)、5年余りの改修工事を経て、当館が国の迎賓施設である迎賓館赤坂離宮となった際に、このピアノも皇居から移管され、以来当館で保有してきたものです。

迎賓館赤坂離宮公式サイトから引用

フランスピアノの歴史は1777年にセバスティアン・エラールが最初のスクエアピアノを作ったことに始まります。
(中略)
エラールは1796年にパリへ戻り翌年に最初のグランドピアノを製作し、その後も改良を重ねる過程でピアノの発展史上重要な発明を数多く行いました。1855年にはパリの万国博覧会で金賞を受賞し、当時のヨーロッパの資産家や音楽家にとってエラールピアノは入手し得る最良の楽器と見なされるようになります。
しかし、19世紀後半に鋳鉄のフレームに交差弦を張ったピアノが登場し、ピアノ製造の主流はドイツやアメリカのメーカーへと移り変わってゆきます。その中で繊細かつ澄んだ響きを守ろうとしたエラール社は次第に時代から取り残され、1960年にガヴォー社に吸収されることにより長い歴史に幕を閉じました。

「サロンエラール」ホームページから引用

もう作られていないピアノなのですね。ヴァイオリンのストラディヴァリウスといい、人類の歴史において常に新しいもののほうが技術的に優れているとは限らないことを再認識しますね。

わたしは、直接音がこちらに向かってくるのではなく、まろやかで曲線的な響きが立ち上って空間を伝って客席に届くような印象を受けました。
なお、通常のピアノより多い2鍵は、低い方に多いのだそうです。その音色も聞かせてくださいました。

プログラム

迎賓館赤坂離宮 エラールピアノ演奏会
~幸せな夜のために~
■月の光
(1890年ごろ、1905年改訂)
 クロード・ドビュッシー 作曲(フランス・1862-1918年)
■練習曲 Op.25-1 エオリアンハープ(1836年)
 フレデリック・ショパン 作曲(ポーランド・1810-1849年)
■幻想即興曲 Op.66 嬰ハ短調(1835年)
 フレデリック・ショパン 作曲
■ノクターン 第6番 Op.63変ニ長調(1894年)
 ガブリエル・フォーレ 作曲(フランス・1845-1924年)
■夜な夜な
 槙 和馬 作曲

迎賓館赤坂離宮公式サイトから引用。()内はウィキペディアから補記。

エラールのために、エラールを使って作曲された曲のプログラム。ドビュッシー、ショパン、フォーレは、エラールピアノを弾いていたそうです。
槙さんも、エラールピアノのリサイタルは初めてとのことでした。
弾いたあとに、「楽器の悪口は言わないことにしています。すべては楽器を弾きこなせない演奏者の責任と思っています。でも今日は言わせてください。もうエラールを弾く前には戻れない。フォーレが弾いていたノクターンはこういう音だったのか、と感じました。」とおっしゃっていました。
音楽って改めてすごいなあ、これだけ長い時間を超えて、楽器の変化も超えて、残るのですものね。見たものに対して感想がアホすぎてすみません。

ピアニスト・槙和馬さん

槙 和馬(まき かずま)
鎌倉市出身のピアニスト、作編曲家。東京音楽大学ピアノ 演奏家コース卒業。在学中成績優秀者に選抜される。
モットーは「楽器と作曲家が輝く演奏 を、楽器と演奏家が輝く作曲を」。

迎賓館赤坂離宮公式サイトから引用。

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鈴木福さんと少し前の大谷翔平さんのような、透明感のあるあどけなさの残る方でした。ピアノを弾く手は見えない席でしたが、表情はよく見えました。曲の場面によって表情が豊かに入れ替わり、苦しい曲調のときは苦しい表情、朗らかな曲調のときはやわらかい表情をされていました。でもそれが嫌味に見えない不思議な魅力がありました。あるいは透明感の功績かもしれません。
名作漫画『ワンピース』(尾田栄一郎/集英社)のどこかの巻のSBS(おまけページ)で尾田栄一郎さんが、キャラクターの表情と同じ顔をして描いている」と語っていたのを思い出しました。表現者というものはそういうものなのかもしれません。また、曲調によって聞き手の表情が変わったり、マンガのキャラクターの表情を見て読み手の表情が変わることもままあります。表現すること、表現を享受すること全体が、そういうもの、そうやって自然と伝播していくものなのかもしれませんね。

ピアノのリサイタルをこんなに近くで聞いたのは初めて

ピアノのリサイタルをこんなに近くで聞くのは初めてでした。
わたしは特に細かい音が流れるように速く動いていく部分が好きでした。
高い緊張感があるんだけど、同時に爽快感もある。
ちょっと事例が卑近すぎて申し訳ないのですが、パソコンのキーボードをすごく速く正確に打てたとき、脳の中の快楽物質がドバーっと出たかのように爽快感・達成感を感じることがあります。また、高級懐石料理などで、言葉を失うほどおいしいものを食べた時の、かみしめる感じ。のどがカラカラの時にビールを飲む感じも近いかもしれません。
自然と目をつぶって陶酔してしまう。かみしめてしまう。

槙さんの作曲した曲「夜な夜な」

槙さんが書かれたプログラムノートの文章がまたとても素敵で。

純粋な気持ちで好きだったもの、楽しかったもの。それは次第に形を変えながらやがて忘れていく。今やもう楽しいとは思えないし、どんな感情だったのかも思い出すことはできない。たまにふと、夢にその純粋な感情を思い出すことがある。懐かしい響き、香り、景色…しかし夢から覚めるとそのすべてを忘れてしまう。もはや時を戻すことはできないのだ。

演奏会プログラムから引用

かつてあんなに楽しかったのに、もう同じように楽しめなくなってしまったときの寂寥感。そのうち、何かがそこにあったことだけが残って、何があったのかを思い出すこともできなくなる。ふとした瞬間にふわっと思い出すのだが、捕まえようとするとすぐに消えてしまう。あるー!!超悲しいと思ってた!!でも、はかなすぎて形として意識できなかったり、センチメンタルすぎてなかなか人に話せない心の機微。
この哀感は、映画『PERFECT DAYS』に通じるものがありました。(『PERFECT DAYS』の影響大きいなあ。)

少し引っ掛かるようなリズム、とつとつと、ぽつんぽつんと思い出す感じで曲は始まります。その引っ掛かりがだんだん踊るようなリズムに発展していくわくわく感・解放感。くらたは、小さい子が、雨の日に水たまりを選んでぽつぽつと飛びながら歩いていたのが、だんだんスキップになって、踊りになっていく姿を連想しました。これは映画『窓ぎわのトットちゃん』にそういうシーンがあったので、その影響かもしれません。
曲が盛り上がっていくと低い音も交じって和音の幅が広がり、和音に少し不協和音になる音が入っている。じんわり足取りが重くなるタッチもあいまって、あの思い出そうとしても思い出せない、記憶の輪郭がぼんやりにじむような感じが感じられました。

音楽家は、表現すべき詩心(のようなもの、なんと言語化すればよいのか……)と、表現したいことを音楽で表現できる力との両方をあわせ持っているのだなあ……天は二物も三物もあたえるのだなあ。
音楽そのものも、その音楽で表現しようとしたプログラムノートの内容も、とても芸術性が高くて、一音先が気になって気が抜けない音楽体験でした。
note.はあまり更新なさっていないですが、ぜひ槙さんの文章も読んでみたいです。

このことに関して思い出したのは、先日、とあるビジネス講演会を聞きに東京駅目の前の超最先端オフィスビルに行ったときのこと。
建物の中央をエレベーターブロックが走っていて、それを挟んで東西の2ブロックに分かれていました。くらたが新卒で入社した会社も同じ構造の建物でした。こういうビルって、中央のエレベーターのブロックにトイレがあって、東西両方から入れるようになっているんですよね。
そのトイレに入って手を洗ってエアータオルを使用して外に出ようとした瞬間、突然、前職のトイレで全く同じフローを繰り返していたことが眼前にありありと思い出されたのです!先輩と歯を磨きながら恋バナしたりしたなあ。転職してからその場面をこんなに臨場感を持って思い出したことはなかったので新鮮でした。
音楽芸術とのセレンディピティの話です……うん……ちょっとこれも事例が卑近すぎて格調が下がってしまった。すみません。

アンコールの即興演奏

「夜な夜な」の後、アンコールはこの日の日付「2月15日」にちなんで、「2」「1」「5」をテーマにした即興演奏でした。
「即興演奏が難しいのは、それが即興であることを証明すること。『昨日の夜考えてきたのではないのか?』と言われることもありますが、そんなめんどうなことはしませんよ~」とユーモアたっぷり。また、「今日が誕生日の方、いらっしゃいますか?お、おめでとうございます(拍手)!では今日の日付にちなんだ即興演奏を……」というホスピタリティ溢れる進行。
お誕生日お祝いでもあるので、途中盛り上がりや屈託がありながらも、わかりやすく、明るく、温かな曲調で素晴らしかったです。その辺の調整もエンタテイメントとしても完璧。すごいな音楽家って!!!

全体をとおして感じたこと・考えたこと

小学生の感想文みたいですね。
コンサート後は脳みそがふかし過ぎたバイクのエンジンみたいに、無駄にブオンブオンうなっている感じがありました。

「切り取り」「編集」「感情誘導のツール」

近年、文章などにおける「切り取り」「編集」の是非が話題になる場面が増えましたが、ショパンの「幻想即興曲」を聞いて思ったのは、音楽こそもうだいぶ前から「切り取り」「編集」されてしまっていること。この曲はアニメ『タッチ』で和也が亡くなる話のあたりで使用されているように、冒頭の激しく悲しいメロディの印象がとても強いですが、全体を聞くと比較的穏やかで朗らかな部分も持ち合わせています
ドラマや映画でも、ここぞというシーンで主題歌のサビがパーンと決まってカタルシスをもたらす劇的な場面づくりは多く見られますよね。ドラマ『ミステリという勿れ』で絶妙にいいところでKing Gnuの「カメレオン」のサビが入ってくるの、くらたも好きでした。
しかし、映画音楽などそのために作られたものは別としても、音楽も一定の幅の時間と構造を持ったひとつながりの独立した作品であるわけで、そのある一部分だけを切り取って、「感情誘導のツール」として使用するのは、音楽芸術の享受の仕方としてどうなんだろう、と思ったのでした。こういう機会を活用して、全体を聞く機会をもっと設けよう、という自戒です。

「音楽を聴く」とはどういうことなのか

プロの音楽家が目の前にいて、その指先から音楽が生まれ出る、まさにその瞬間に居合わせる。一音先が気になる、という体験は初めてでした。カラオケの字幕画面みたいに、視覚的にその先の展開を教えてくれるものは何もありません。特に即興演奏は、全体像は演奏者の頭の中にしかない。
そこで考えたのは、「音楽を聴く」とはどういうことなんだろう、ということでした。
音楽というのは一定の時間の幅があり、構造を持っている。その構造の中の、今ここはどのあたりなのか。常に「図」を追いかけながら、「地」の全体像は最後の一音を聞き終わるまでわからない。今のメロディの情感だけではマッピングできない。次はどう展開していくのか。強烈に「今ここ」を意識しながら、一音先が気になる。「地と図」、「今ここ」と音楽の構造全体を何度も行き来する。

コンサートの後、このことが気になって気になってしかたなくなってしまい、「音楽 哲学」「音楽 心理学」などとめちゃくちゃに検索しまくったところ、くらたは寡聞にして知りませんでしたが、音楽は「時間芸術」なのですね(これに対して絵画は「空間芸術」)。

映画や音楽の力によって、私たちはその時間の中に流れていく無数の「今」を捉えることができるようになります。
それが時間芸術の本質です。

Rockin'on.com「常田大希を語る前に確かめておくべき大事な話」

このことは今日とらえきれなかったので、今後、意識してリサーチしてみようと思います。何か書くべきことがまとまったら書くかもしれません。書かないかもしれません。

OH、6000字超えてしまった……。
毎度のことながらここまで読んでくださった方、ほんとうにありがとうございます!
感じたこと、書き残したいことはあらかたここに出せたと思います。
ともかくともかく素敵な夜でした!

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