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昭和の記者のしごと⑫匿名報道 

第1部11章 匿名報道の条件

考査室からのきびしい批判


 新聞社や放送局には、組織の名称は様々ですが、記事や放送を審査して意見を言う考査室があって眼を光らせています。1987年(昭和62年)1月、盛岡の放送局が出稿し、朝のニュース番組で全国に放送された「厳冬の山中に7日間、身体障害者奇跡的に救助」のニュースについて、救助された障害者を匿名で報道したのは疑問がある、と考査室がきびしく批判してきました。
 
―「本人がそっとしておいてほしい、と言ったので」ということだが、これを認めればほとんどのケースで実名報道が成り立たなくなり、報道の信ぴょう性、信頼性を根本的に揺るがすことになる。「全国の障害を持つ人たちを勇気づける話だ。ぜひ実名で報道させて欲しい」と粘り強く説得すべきであった。新聞各紙は実名で報道しており、盛岡ニュースは安易に妥協してしまったのではないかー
 
 確かに全国紙各紙を見ると、たとえばM新聞は社会面のトップで、横向きに「雪の道 『助けてけろ、助けてけろ』」の大きな見出し、たてに「身障ドライバー車内に6日」とやはり大きな6段見出しをたて、さらに4段の「動けず、雪食べて」の補助見出しと、これ以上はない、という派手な扱いです。それより参ったのは主人公のTさんが孫を抱いてインタビューに応じている写真がもちろん名前入りで紙面の中央にでん、と載っていることです。とても、そっとしておいてほしい、と言った風には見えません。
 

匿名報道のてんまつ、文書で報告


 このニュースの担当デスクであった私は、これは生半可な返事をしたのでは到底納得してもらえないと思い、匿名報道に至ったいきさつから、匿名報道への考え方まで改めて整理して文書で報告しました。(<>内が報告書)
 
<(1)匿名報道に至ったいきさつ
▽  このニュースは盛岡の警察が「明日、人命救助で表彰する」と発表したのが発端。この際、警察は独自の判断として「救助された人は障害者なので名前を伏せて欲しい」と要請した。担当記者は救助されたTさん宅に電話したが、Tさんはつかまらず、Tさんの妻とコンタクト。Tさんの妻は「自分が市役所に勤めており、恥ずかしいので名前は出さないで欲しい」と繰り返し要請した。
▽  担当記者は丸6日間にわたる行方不明事件なのに家族から捜索願が出ていなかったことから、他人に言えない家庭内の事情もあるのではないかと考え、Tさんについて匿名で出稿した。担当デスク(私)は救助されたTさんは重度の障害者であり、今回の事件が障害そのものに関わっているだけに実名で障害の程度に触れられるのは健常者が考える以上につらいことなのだろうと察し、匿名判断を支持して、そのまま東京へ出稿した。
▽  Tさんは20年前、交通事故で下半身不随になった障害者手帳1級の重度障害者。アクセルとブレーキが手動式の車を運転しているが、車椅子がないと、はっていくしか移動ができない。今回の事故の発端はTさんが小用をたすため、メインの道路からわざわざ雪深い小道を50メートル入ったことによるが、ここにも恥ずかしいところを見られたくないという、障害者独特の心情がある。>
 
この事故をもう少し説明しますと、Tさんは入っていった小道が行き止まりなのに気づき、車をあと戻りさせようとして後輪を雪の斜面に乗り上げ、前輪もくぼみに挟まって動けなくなりました。クラクションを鳴らし、発煙筒までたきましたが、年末年始のため林道の小道には車は入って来ません。近くの人家まで7、800メートルあり、積雪は50センチで、はっていくのは無理。雪を食べながら、車の中で救助を待っていた・・・。
一方、救助した農家の主人はヤマドリの猟で近くの山に来て、自分の猟犬を見失ったため、呼子笛を鳴らして犬を呼んだところ、車のクラクションらしい音が聞こえました。さらに笛を鳴らすと、クラクションが立て続けに鳴らされ、遭難していたTさんを見つけた、という。
Tさんは暖房のヒーターのガソリンもすぐにつき、氷点下10度の車内で時々テッシュペーパーを燃やして暖を取りました。きつつきの木をつく音がすると、人かと思い、クラクションを鳴らした、と話は救助のされ方を含めてあくまでドラマチック。確かに、この場合、名前は不可欠かもしれません。
 

農家負債問題で実名報道


<(2)当事者が匿名を希望した理由
▽  事件後、Tさんは体調を崩し入院中だったため、Tさんの妻に改めて話を聞いた。Tさんの妻は市役所勤務のことのほか、6日間も警察に捜索願を出していなかったため、家庭内に何かあったのではないかと、近所や親戚の人たちから白い目で見られており、報道されると、広い世間からさらに増幅して白い目で見られるのではないかと思った、という。
▽  6日間捜索願を出さなかったのは、これまでもTさんが無断で知人宅に泊まってきたことがあったためだ。最初の3日間はまた同じことだと思い、本人からの連絡を待っていた。後の3日間は家族が八方手を尽くして捜し、限界だと思って警察に届けようとしたところへ警察から無事発見の連絡が入った、という。
▽  実名報道されたあと、Tさんの妻は会う人ごとに、どうして早く捜索願を出さなかったと聞かれるが、生活に支障が出るほどではないということだ。また、匿名は家族の強い希望だったものの、本人はそれほどこだわっていなかったという。
 
(3)  匿名報道の条件
▽  以上、匿名を支持したニュースデスク(私)の判断の根拠は①きわめて良い話だが、実名報道で、せっかく救助された人を傷つけるべきでない②匿名報道でも、この事件の持つ意味合いは伝えることが出来る、という2点に尽きる。
▽  匿名か実名かをめぐる最近の盛岡ニュースの経験で思い出されるのは去年2月、ローカルのニュース番組で4回シリーズで放送した「どうする農家負債」でそれぞれ数千万円から2億円近い負債をかかえた、7人の負債農家について、氏名、負債額、すべて実名、実額で報道したことだ。当事者の了解を取ってのことだが、家族、親戚、地域の人々などに与えたショックは大きく、その反応もシビアなものだった。
▽  客観的に見て、今回の事件以上に実名報道を貫くのは難しいケースだった。しかし、あえて実名にこだわったのは、「農家負債問題は農政や農協経営のあり方に根を持つ問題で、個人的なスキャンダルではない。そのことを明らかにするには負債農家が正面を向いてインタビューに応じて、問題を訴えるしかない」という盛岡ニュースの判断があり、
この報道姿勢を負債農家の側が理解し、支持してくれたからである(説得の連続であったが)。
▽  匿名報道とするかどうかの判断のポイントは、Ⅰ人権上の配慮 Ⅱ実名報道の必要性である。負債農家の報道ではⅡの要請が極めて大きく、そのためⅠを確保するため、取材・放送上、様々な努力をした。
▽  今回の報道について検証すると、Ⅱ(実名報道の必要性)の要請はそれほど強くないと判断した。このため、実名報道をしながら、Ⅰ(人権上の配慮)を確保する努力(説得など)が不足した(甘かった)、と現時点では考えている。>
 
以上の説明と考え方を考査室は納得してくれました。
この時から20年たった現在、人権上の配慮―匿名の要求はさらに強まっているように思います。しかし、匿名にするかどうか(実名報道をするかどうか)に当たって、判断のポイントが人権上の配慮とともに実名報道の必要性にあることを忘れてはならない、と思われます。

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