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夜に酔う話

「視えぬ、オルタナ」という小説を、拙作ながら書いていたのだが、正直、投稿した1話、2話を読み返して吐きそうになった。書き出しからもう見るに堪えなかった。

多分、続きを読みたい人もいるんだろうとは思う。ただ、自分であの文章に納得がいっていない。何より良い文章が書けたと自分で認められていない。だから、少しの間だけ、あの小説たちは非公開にさせて頂きたい。非常に申し訳ない。
自分なりにもう少し練り直して、自分で頷ける文章になれたら、改めてもう一度公開したいと思う。

あの小説は深夜帯に執筆し、投稿していたのだが、その深夜の、正体不明の全能感に呑まれたのがいけなかった。

深夜というのは恐ろしいもので、
ヒトの思考回路がある意味で鈍る時間帯だ。
俗に深夜テンション、という言葉も定着しているし、きっとそれは私だけではないのだろう。

思考回路が鈍り、全能感と幸福感に包まれ、いつもならタガが掛かって書けない文章が書ける。
眠気でフラつく頭の中で、とめどない単語の洪水が起きる。その乱雑な言葉の溜まりの中から、思いの向くままに拾い上げ、文章に仕立て上げる。

この、一時的にあらゆる雑念が消え、己は無敵だと思い込める、ゴーサインを何事にも出せる、ハイで盲目的な状態。

私はまだ未成年なのでお酒を飲んだことはないけれど、お酒に酔う、というのはこんな感じなんだろうかと勝手に思っている。

夜に酔っている。酩酊している。
へべれけになっている。

この状態は本当に、自由奔放に文章が書ける。
文学的な美しさを求めない、気の抜けた文章もすらすらと書けてしまう。それは、自分の中で創作の引き出しが拡がることもあるので、良いと思える。
だが、noteのように、外の世界にアウトプットするとなれば話は別だ。

私は最近、第三者から言われて、やっとで、自分の唯一の才が文章、文学であると気付いた人間なので、自分から文学を取り上げたら本当に無価値になってしまうと思っている節がある。

だから、常に自分史上最高の、美しい文章を書けなければ、私の文章にも私自身にも価値はなくなる、と、ある種の強迫観念みたいなものに取り憑かれているのではないかとも思う。

故に、『夜に酔った』状態で書いた文章を世に出してから後悔している。
確かにあの状態は文章の体裁も気にせず、気ままに書けるから神経を使わない。その自由さから新しく産まれるものもあるだろう。だが、自分はどうしてもあの状態で書いた文章に自信が持てない。美しさと緻密さを考慮していないからである。自分の勝手なポリシーとして、『常に計算して文字を組み上げ、最も自分の中で美しいと思える文章を書く』、を心の中で掲げているのだが、
その美しさを求めるのも、言葉のポテンシャルを最大限に引き出し、自分が伝えたいこと、想いをそこに乗せる為だ。人の心を揺さぶることが出来る為には、文章から意味を汲み取って貰わねばならない。だが、その文章が、『何を言いたいのか解らない』状態になってしまっては勿体ない。
だからこそ、文章に含ませられる限界量の意味と感情を含ませるために、計算して推敲する。

だが、『深夜の酩酊』にやられて書いた文章にはそれがない。

すなわち、美しくない。

だから、夜が明けて読み返した時に恥ずかしくなる。

坂口安吾の「不良少年とキリスト」に、『フツカヨイ』という単語が頻出する。
坂口の友人であった太宰治の、性格的なところを指して使われていた単語だった。

酒に酔った状態に似た気分で、道化を演じたままで文章を書き、後から演じきれずに素面に戻って恥ずかしくなる、それが『フツカヨイ』である、といったニュアンスで、太宰の性格について書かれていたと記憶している(違っていたら申し訳ない)が、まさしく私はその『フツカヨイ』に近いのではないかと薄々思う。晩年の太宰のような、最後まで酔えなかったような、そんな感じだ。
敬愛する太宰に、こんな自分を重ねるのも何だか申し訳ないのだが。

いつか『演じ』きれなくても、『酔い』きれなくても、自分の文章に自信を持てたらいいのになあ、と、同時に、美しさに縛られない何かを見いだせたら、と思う。

今この瞬間も、夜に酔いながら。

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