見出し画像

点から線へ『In The Wake of Progress』

人は線ではなく点でできている。物心ついた頃、大人からそう聞いた。人の体は目に見えないほど小さな細胞という点が何億も集まって作られているのだと。話を聞いただけではどういうことかよく分からなかった。じっと自分の腕や足を見てみても一枚の肌で覆われているようにしか思えなかった。

六月。毎夏恒例のストリートフェスティバル「Luminato」の出し物を見るため、ダンダス駅に降り立つ。モールの地下でコーヒーを買って、しばし街をそぞろ歩く。日没が近いものの看板や広告で溢れたダンダス・ストリートは常に眩しい光を放っている。広場に人だかりができているのを見つけ、中身が残っている状態のままカップをゴミ箱に放る。いつも捨てた後になってスリーブはリサイクルできることを思い出すが、どうすることもできない。

広場に着くと人々がみな空を見上げていた。圧倒的な映像の力を行使し環境問題を浮き彫りにしてきた写真家Edward Burtynskyの新作『In The Wake of Progress』を見ているのだ。Luminato開催中は、広場に建つ巨大スクリーンを全て利用して無料上映されている。砂漠から海岸へと無限に表情を変えながら続く大地、そこに生成されては消費されていく膨大な数の命。彼が捉えるイメージは常に世界の規模と俗世の奥行を見せてくれる。振り仰げば街は青々とした森の映像と低くゆっくりとした音楽に包まれていた。その水々しい光景に思わず何人か詠嘆の声を漏らす。しかし心を癒す美しい森は突然の工業地帯と機械音によって遮られる。何万という重機に開発され、姿を変えていく土地。自動で繰り返される掘削のため大地には均等な縞模様が浮き上がっている。そう遠くない昔、多くの生き物が家と呼んだであろう土地はもう命を養うことができない形になっていた。

上映が終わり、周囲が一瞬だけ暗くなると、大きな歓声があがった。広場の中央で私たちはしばらく半導体が輝く夜空を見上げていた。さっきまであらゆる地球の映像を映し出していたスクリーンの後ろにはガラスとセメントに覆われた都会だけが存在している。広場に設置されたカウンター席には皮肉なことにプラスチック製の植物が置かれていた。遠くから見れば一つの球体である地球だが、実際には無数の小さな人間が生活のために繰り返す採取、製造、加工、消費、そして廃棄と忘却のプロセスによって作られている。Burtynskyの映像はその証拠であり、未来の地球に思いを馳せる予知夢のようだった。

たまたま通りかかった父子が私の隣で見ていた男性に話しかける。どんな企画なのかと聞く若い父親に、祖父ほども年の離れた男性は熱心に解説する。父親の手を握る幼い息子にはどれだけ理解できただろうか。この子が大人になり、線と点の違いが見えるようになる頃、彼を癒し育める風景がどれだけこの世界に残っているだろうか。