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お金を払ってまで、鉛のような重りにも似た消化できない余韻が残る映画を観たくなるのも映画鑑賞の一つ。
そのような時間経過は果たして無駄なのか、一瞬合理的ではないと捉えられなくもありませんが、そこは多様性ではなく私は人を識る(敢えて‘知る’ではなく)愉しみ、その興味が浅いか深いかの違いではないかと思います。

例えば人は誰かと本気で理解し合いたいと思うとき、話し合うと思います。
ツールとしては現代的には尽きないSNSチャットでのメッセージのやり取りであったり、やはり手っ取り早い電話が主流でしょう。
恐らくケースによっては長電話となり、堂々巡りの会話が続きあっさりしたものにはなり難いです。良い方向でまとまれば何よりですが、何とも言えない気持ちで一応収める事もあり得ます。
一概にこうした時間経過を合理的思考で選択しない人もいて不思議ではありません。しかし何らかのわだかまりを解消しようと話し合いに努める行為の方に、私はリアリズムを感じる故に結果如何ではない人を識る大切な価値観が優先して良いと思うのです。

世の中、思い通りに行くと楽観的なものの見方をする傾向として、ゼロサム型と言われる白か黒か結論が早く、切り捨てられる強さと見る向きもあります。
映画で例えてハリウッドの勧善懲悪アクション、VFXな色彩が頭に浮かびます。
そんなにシンプルに事が運ばない人間社会故に逆説的にファンタジーを求める趣向も大いにあるのでしょう。

人は何処か根本的な解決を避けることでダメージを少なくする方を選ぶ生き方が案外主流ではないかと考えます。解決への労力に費やす時間を慮るからです。
それも正しい価値観です。

そこで私の見解は生きていく上で、そのようにして置いてきた問題種々に至った心の在り様を時として顧みる必要もあるのではないかと感じます。
それは人故に物事を幾度起こして忘れる繰り返しの悔恨に自分を責めてしまう経験からの何らかの改善を図らねばと、その時はそう思う筈だからです。

映画に話しを戻します。
イタリア映画のネオレアリズモの名作と呼ばれる『自転車泥棒』『無防備都市』『ドイツ零年』といった名作に触れる機会がもしあるならば、冒頭に述べた鉛のような重しを否が応でも痛感せざるを得ないでしょう。その感覚を時として私は必要なテーゼとも言い換えて良いと思っています。
これはジャンル映画やラース・フォン・トリアー系の意図的に精神衰弱を狙った作品を意味するものではなく、ネオレアリズモの背景がナチスへのプロテスト(反抗の意)であるように、映画勃興期に作られた作品に共通した概念を指します。救いのない現実とは人間が生み出した不条理であるという普遍性を識ることができます。
これは間違いなく自分自身にフィードバックできるものであり、精神の冷静さを取り戻せるといっては大袈裟ですが、そう過言したくなります。

私が或る映画を紹介するとして、推奨したい作品の通念には、そうした要素は欠かせないものがあるかもしれません。

【インフォメーション】
本稿で使わせていただいた写真の展示会があります。今日迄!

井上洋輔 写真展
『あれからとそれから』
日時:4/28(金)〜4/30(日)
12:00〜20:00
場所:下関市細江町2-2-10
capanna di CIPOLLA

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